大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台高等裁判所 昭和34年(う)443号 判決 1961年8月08日

目   次

主文

理由の要旨

第一、序論

第二、本論

その一、本田アリバイについて

その二、高橋アリバイについて

その三、赤間自白について

序説 赤間自白の重要性

一、集合出発地点の変更、同地点から永井川信号所南部踏切までの道筋の変更、及び帰路の一部変更について

二、帰途森永橋の袂で休憩し、その際肥料汲みの車をひいてゆく農夫(高橋鶴治)を見たということについて

三、一審の森永橋附近検証の際、赤間が本田に、「俺達が休んだのは、もう少し向うの方だつたなあ」といつたとされる赤間失言について、

四、永井川信号所南部踏切を通過したということについて

五、赤間自白の一五日謀議及び国鉄側謀議参加者と実行担当者の特定について

六、「赤間予言」について

七、赤間アリバイについて(新証拠「赤間ミナの917土屋調書」の出現)

八、実行行為(列車脱線顛覆作業)に関する赤間自白について

その四、浜崎自白、大内自白、菊地自白等について(バール、スパナの持出し、佐藤一、浜崎の出発、帰所関係を含む)

その五、一五日連絡謀議(「諏訪メモ」佐藤(アリバイを中心として)と一六日連絡謀議について(附、予備的訴因)

一、一五日連絡謀議について(「諏訪メモ」佐藤一アリバイを中心として)

二、一六日連絡謀議について(附予備的訴因)

その六、一五日国鉄側謀議(鈴木アリバイ((連絡謀議の分を含む))を中心として)

その七、一三日謀議関係について(鈴木アリバイ、高橋アリバイ等を中心として)

その八、アリバイ工作、松川労組事務所に泊つた理由について

その九、バール、スパナ関係について

第三、結論

○判決主文および理由の要旨

主文

第一審判決中、被告人らに関する部分を破棄する。

被告人らは、いずれも無罪。

理由の要旨

第一、序論

一、当裁判所は、あらゆる審理を尽くし、真実の探究、発見に全力を傾倒した。その結果は次のとおりである。

当差戻し審に現れた新証拠により、またはこれと旧証拠とを総合して、部分的には従来不明確であつた点を明確にできたものもある。けれども、事件の全体的評価には影響なく、上告審判決が原二審判決にかけた重大な事実誤認の疑いは、遂に解消できなかつた。既に、その意味で、上告審判決の趣旨に従い、一審判決の破棄は免れない。

それのみでなく、新証拠の出現により、却つて、謀議についてはもとより、実行行為について、従来の認定に対し、さらに新たな合理的疑いを容れる余地が多分に出てきて、全般的に、被告らが本件犯行を敢てしたことを確信するに足る心証の形成からは、ほど遠い結果となつた。

二、松川事件がいかに容易ならぬ難件であるかは、上告審で七対五に意見がわかれて、破棄差戻しとなつた事実自体が、よく物語つている。その証拠関係は膨大で、かつ錯雑多岐を極めたマンモス事件なのである。

三、当審検察官は、この松川事件の特殊性(破棄差戻し事件で、十余年もたち、関係者の記憶にも多く期待できない等)に鑑み、当裁判所の勧告もあつて、捜査段階当時作成の供述調書等千六百余通にのぼる膨大な書面を、利不利を問わず、新たに証拠として提出した。公益の代表者としての立場から、真実の発見に協力するために、検察官のとられたこの異例の措置こそ、まこと、検察の真髄を発揮したものである。

四、当裁判所は、検察官提出のこの新証拠群の中に、「諏訪メモ」とはその性質を異にするが、その重要性において、これにまさるとも劣らぬ、幾多の新証拠(主として対照吟味に用いる物的証拠の性格をもつ)を発見した。

そのうちのあるものは、基本的事実についての動かない証拠であつて、そこに見解の相違を容れる余地なく、その新証拠に対する反対証拠とみられるものはおのずから克服され、またはその新証拠の線に浴うて自然に解明し得られるものであり、本件の全証拠を総合判断しても、これを動かすに由ないのである。そうして、新証拠の出現は本件事案の全域にわたる。

当裁判所は、検察官、弁護人側双方の主張、立証をつぶさに検討吟味し、これを止揚して、事案の展望と凝視の上に、その双方の全く気付かない重要点、気付いてもその重要性を意識せず、または綿密な論証をしない重大点において、不動の証拠に基き、珠玉の真実を発見し、冒頭の結論に到達したのである。

五、本件列車脱線顛覆が人為的事故であることは明らかで、問題は被告らが犯人かどうかである。この直接の決め手となる証拠は自白のみ。実行行為の決め手となる証拠は、本件捜査の端緒となつた赤間の自白と、それにより検挙された浜崎の自白だけである。赤間自白によれば、実行行為者は五名で、国鉄側は本田、高橋、赤間の三名。特に、本田は謀議にも実行にも指導的役割を果したとされる。国鉄側が計画し東芝側を引き入れたとされる謀議関係は、国鉄側では鈴木、東芝側では実行行為もしたという佐藤一が、重要な役割を演じたとされる。

赤間自白なくしては、松川事件は存在しない。その赤間自身のアリバイが、新証拠の出現により、いまや、成立の蓋然性が甚だ高いのである。本田アリバイの成立は全く決定的、高橋アリバイ成立の蓋然性も甚だ高い。佐藤一アリバイの成立は決定的、鈴木アリバイの成立もまた決定的である。

かくして、謀議関係についてはもとより、実行行為自体について、合理的な疑いが極めて深い。松川事件の根幹は大きく揺らいだのである。

以下、ここでは、新証拠の出現による重要問題点のうちの若干につき、その要点を考察する。本来、二つの連絡謀議に対する解明からはじむべきであるが、この点については、先ず冒頭で、結論的に、上告審のかけた重大な事実誤認の疑いを解消できなかつたことを述べ、説明の便宜上、実行行為についての説明からはじめる。

第二、本論

その一、本田アリバイについて

1 若し、本田が真の実行犯人とすれば、到底国労事務所に眠つている筈のない時刻に眠つていた事実が、本田と無関係の証拠で裏付けられたら、何人も、それだけで、本田アリバイの成立を承認しないわけにはいかないであろう。

ところが、それを証明する新証拠が現れたのである。本田101熊田調書に「十六日夜酔つて、グッスリ寝ていたところを、午前四時か五時頃、木村が私の体をゆすりながら、『誰か知らんか、誰か知らんか』というように聞いたので、私はウツラウツラしながら、『知らん、知らん』といいながら、そのまま眠つてしまつたように覚えている」という供述がある。その木村の調書である木村泰司930宮川調書に、「十七日朝四時か五時頃と思うが、福島保線区の誰かわからないが、電話で、附近の高橋とかを急用だから起してくれ、というので、宿直室に寝ている本田を起したが、本田は起きないので、私は明るくなつてから知らせるといつて、電話をきつた」とあり、木村泰司910大塚録取書にも、「……彼を起したが『ウーン』と唸つて、起きないので……」云々の同旨の供述がある。これまで、証拠に出ていた本田の検察官調書には、この点の供述が全然出ていない。それがため、本田が法廷でこの点を述べても信用されなかつたのであろう。本田もその供述の重要性に気付かず、薄井電話、相楽電話等については、原二審で検察官に対し釈明を求めたが、この点については全く釈明を求めていない。当審弁護人もこの点が本田アリバイを決定的ならしめる意味において、論証が不十分である。本田が身柄を拘束されて外界と全く遮断されている時に、本田の供述と木村の供述とが合致するということは、二人が事前に打合わせたとか、木村以外の同宿者に聞いたとか等の特別事情のない限り、二人が体験を共にしたからこそ合致するので、合致する内容が真実だとみるのが、経験則である。

ところが、このような特別事情はなに一つ見出せない。検察官は、木村が別の日の出来事をその十七日朝のことと誤信して述べたものであると主張する。その証拠は木村の最初の記憶に基く供述を変更した後の供述以外には何もない。木村は、捜査常識上、本田アリバイの最も重要な参考人である。それなのに、本田逮捕直後に作られた他の参考人らの供述調書はあるが、木村のはない、実際はそれ以前に木村は取り調べられている事実があるのに、その調書がないのである。このことは、検察官の主張する武田らの働きかけ以前に、木村の記憶に基く供述が本田アリバイを証する供述だつたと推測させるに十分である。木村が右930宮川調書の供述を変更したのは、四回も呼び出されて調べられた後やつと変つたもので、はじめの記憶がいかに強固のものであつたかを示している。変更後の木村証言によると、「その頃本田が酔つて国労事務所に泊つたことが一回だけある。それが十六日夜でないことだけは確かだが、何日か、十六日の前か後かそれもわからない。その時本田に電話を引継いだ記憶はあるが、どこからの電話かわからない」。という驚くべき証言である。本田が酔つて泊つたことと、本件列車事故があつて早朝電話が幾つもかかつてきたということの、二つの異常な出来事が結びついて、深く記憶に残つていたのが、何が何んだかわからないアヤフヤな別の日の記憶と混線して誤信したなどということは、およそ経験則上考えられない。最初の深い印象の記憶に基く供述を変更した後のアヤフヤな供述は到底信用できない。一方、十七日早暁福島県保線区から電話をかけてきたのは、管理部保線係の阿部忠七(四二才で、本件列車事故報告書の事実上の作成者)で、本件列車事故のため、職務上、国労事務所附近に住む保線区の高橋某を起してくれるよう依頼してきたものであつて、その時刻は午前四時五二分近い頃である事実は、阿部忠七証言等により動かない。そして、赤間自白からすれば、この時刻に本田が国労事務所へ帰つて眠つていることのできる場面は全く起り得ないのである。かようなわけで、本田が真犯人とすれば、その時刻に国労事務所で眠つている筈がないのに、その時眠つていて木村に揺り起こされたという本田の法廷供述は、その真実性が保障され、本田となんの関係もない阿部証言により裏付けられているのである。この事実だけで、本田アリバイの成立は殆んど全く決定的といえる。

2 次に、新証拠の出現により、検察官が主張し、従来いわれていた本田アリバイの成立に対する疑点はすべて氷解する。その主なものをあげれば、検察官の主張する薄井電話についての「熱海の干さん、久さん云々」「今日は役員はいない」等の点は、新証拠の薄井信夫1112柏木調書の出現により、また、最も謎とされていた相楽電話の午前四時十分の時刻の点は、新証拠の古川俊夫115柏木調書の出現等により、おのずから解明されるのである。なお、本田が電話に出たのをみない旨の松崎証言は、新証拠の松崎109山本調書、930大塚録取書等により、別の電話の誤りであることが明らかである。また、検察官の否定する矢部寛一郎がその朝国労事務所へ来て寝ていた本田を起した事実も、その点の矢部証言を裏付ける幾多の新証拠が出現して、到底矢部証言の真実性を否定し得ない。

3 当審検察官は、従来否定していた阿部被告が当夜国労事務所へ行つて前田幸作と将棋をした旨の阿部供述を認め、ただ新証拠の前田幸作104唐松調書によつて、阿部がその際本田が宿直室に寝ているのを見たという部分は信用できないとする。けれども、当審証人前田幸作の証言によると、却つて、その際本田の寝ていた事実を窺わせるに十分なのである。なお、本田が当夜悪酔した事実は、新証拠により裏付けられている。

そうして、当審検察官は、従来否定していた武田方を出た本田が武田ヒサ子に送られて駅前まで行く途中雨に遭つたとの事実を認め、その雨は高子証言のいわゆる一回目の雨(午後十時四十二分降り出し)だと主張する。けれども、被告側と何ら関係のない武田方の隣家の斎藤満証人の証言は、これを支える新証拠もあつて、信用し得るものとみてよく、同証言を参照すれば、本田とヒサ子の遭つた雨は、高子証言のいわゆる二回目の雨(午後十一時四十六分降り出しの霧雨)であると解するのが正当である。そうすると、本田が国労事務所へ行つたのは、午後十二時前後となる。これはサンマー・タイムであるから、標準時にすると、午後十一時前後で、夏の十一時前後といえば少しも遅くはない。なお、霧雨に遭つた程度だから、酔つた本田を寝かせた木村が、衣服の濡れていたかどうか述べていなくとも、別に不思議ではないわけである。

4 検察官が本田アリバイを否定する唯一のよりどころは、木村泰司証言であり、同証言は本田アリバイ成否の決定権を握るものとされてきた。

原二審で、本田被告が「無実を着て絞首台に吊されても、やはり無実を信じ、又は証明するのはあなた以外にないことを信じていなければならないのです。それでも思い出していただけないでしようか」と鳴咽しつつ尋ねたのに対し、木村証人は、「私の証言で本用さんの白黒が分れるということはわからないが、記憶どおり述べる自分の気持を変えることはできません」と証言して、劇的場面を展開している。

この部分だけを切離してみると、通常の場合何の恨みもない本田に不利益な虚偽の証言をするとは到底考えられない。けれども、新証拠を参照すると、右証言の「記憶どおり」というのが、先にも述べたように、アヤフヤな何の真実味もない記憶で、証言全体からみると、酔つて泊つたのは結局十六日夜だということに帰すること、即ち、却つて本田アリバイ自体を物語つていること、警察で最初の強い印象に基く供述を変更するに至つた苦しい立場、その供述を変更した理由とするところが空虚な理屈であること、これらの諸事情からみると、木村としては、おそらく、赤間自白やその他の証拠があつて、自分の証言だけで本田が有罪になるなどとは思わなかつたのであろう。ともあれ、数々の新証拠が出現してみると、木村証言は、いまや却つて、本田アリバイを補強する資料でこそあれ、これを否定する資料とは到底なり得ない。

かくて、本田アリバイの成立は殆んど全く決定的であるといえる。

その二、高橋アリバイについて

1 検察官が高橋アリバイを否定する殆んど唯一の積極的根拠は、十七日早朝高橋が国労事務所へ立ち寄つたという木村証言である。

ところが、本田アリバイについて木村証言の信用できないと同様、高橋アリバイについても信用できない。木村が初めてこのことを言出したのは、本田アリバイで問題の供述を変更した新証拠の木村105宮川調書においてなのである。しかも、その朝高橋が来たという時刻について、右の最初の調書では午前七時から八時までの間、10.7山本調書では、午前七時頃、1011山本調書では、六時半頃、一審証言では、検察官の尋問では午前六時頃、弁護人の反対尋問では午前七時過頃、というふうに変転している。そのように変転したわけは、高橋がその朝七時半頃当時二階四畳半を間借りしていた鈴木セツ方階下洗面所で、本件列車事故の話をセツらにした事実が明らかになつたことと、何かの関係があるのではないかと疑わせるほか、首肯できる理由は何一つない。

そもそも、一体、高橋は、若し真犯人とすれば、何の必要があつて、態々そんな早朝に怪まれる国労事務所へ立ち寄つて自ら目撃証人を作るようなことをしたのであろうか。犯罪の不合理性では片附かない不可解な木村証言である。検察官はこの点黙して語らない。

高橋が十七日早朝国労事務所へ立ち寄つた事実は否定せざるを得ない。

2 検察官が高橋アリバイを否定するもう一つの根拠は、高橋方ラジオが当時故障していたのに、朝七時半頃セツ方で列車事故の話をしたのは不可解で、自宅に寝ていなかつた証左であるというのである。けれども、検察官側申請の大河原芙美子証人自身同女がセツ方を引越す八月十三日には当時隣室の高橋方ラジオは鳴つていたと証言している。また、警察当局が当時ラジオが故障していたかどうかを調査した形跡があるのに、その資料が出ていないのは、故障していたことを確かめ得なかつたものとみざるを得ない。

高橋方ラジオは当時故障していなかつたのである。

検察官は、高橋が事故を知つたのは自宅ラジオでなく、国労事務所へ立ち寄つた際、鉄道電話で知り得たか、或は帰途沿道の民家から聞えるラジオ・ニュースにより知り得たものと推測されると主張する。けれども、国労事務所へ立ち寄つた事実のないことは、前叙のとおりである。また、高橋が真犯人とすれば、途中ウロウロ道草を喰う筈もなく、赤間自白からすれば、鈴木セツ方へ帰るのは午前五時四〇分頃になる筈であり、当朝の列車事故のラジオ・ニュースは六時十五分が最初だから、民家から聞えるラジオを聞いて知るなど不可能である。

高橋は自宅ラジオで本件列車事故の内容を知つたのである。

3 では、高橋が真犯人だとした場合、セツらに気付かれずに、セツ方を出かけ、帰ることができたか。

高橋が十六日夜八時過頃妻子とセツの孫(八歳)を連れて、盆踊見物に出かけ、午後十時半頃帰つたことは、新証拠の裏付けもある高橋キイ証言で認めてよい。高橋は一審最終陳述で、帰つた時刻は妻の証言するとおりであるが、家へ帰りつく少し前に雨にあつて急いで帰つた記憶があり、その雨は高子証言の十時四十分頃の雨で、その頃帰宅したのが正確である、という。若しその雨(正確には十時四十二分)に遭つたのが真実であるならば、それから家へ帰つてセツに挨拶したりした後出かけると、赤間自白にいう十二時前頃既に集合場所の材木置場へ行つていて、本田と二人で赤間を待つている場面は到底起り得ないから(高橋の足でセツ方から材木置場まで約一時間十分位)、この一事をもつて、高橋アリバイは完全に成立する。けれども、右高橋の供述以外にこれを確かめ得る証拠がないから、アリバイ成否の重要点なので、慎重を期すべきである。

高橋がセツ方へ帰つて、セツの寝室を通つた時、セツが孫に風船を買つてくれたお礼を述べているから、セツが高橋の帰つた十時半頃目を覚ましていたことは確かである。高橋の二階の部屋から外へ出るには、階段をおりて、セツの寝室を通つて玄関から出るほかは、セツの寝室の脇の階段のある所に接している台所に出て、そこの出入口から出る以外になく、その出入口の硝子戸はあけたてにガタガタ音をたてる。玄関・セツの寝室、階段のある所、台所は全部互に相接している狭い家で、セツの寝室には六十三歳のセツと孫三人、玄関脇の四畳半には島倉コンが寝ている。また、翌朝五時半頃は既にセツが起きていたのだから、赤間自白によれば、高橋はセツが起きてから帰宅したことになる。若し高橋が真犯人とすれば、かかる条件の下で、セツらの誰にも気付かれずに、おそくも夜十時四十分頃(ないし精々十時四十五分)までには階段をおりて家を脱け出し、特に朝は五時四十分頃帰つてきて、誰にも気付かれずに家へ入り、二階の部屋へあがらなければならない。このことは絶対に不可能ではないであろうが、誰にも気付かれずに成功する可能性の確率は甚だ少く、気付かれる公算の方が遙かに大きいというのが経験則であろう。ところが、セツをはじめ誰一人気付かず、その早朝高橋をみかけたという隣人もいない。

そもそも、一体、かような危険を冒さなければならない間借りの高橋を、しかも歩行機能がある程度通常人に劣るとみられる高橋を、実行者に選ばなければならなかつた理由があつたのであろうか。不自然である。

4 それでは、高橋が真犯人とすれば、十六日午後四時過ぎ米沢から福島へ帰つたあと、赤間自白の集合時刻、場所の連絡をうけ得る機会があつたか。

新証拠の出現により、高橋の身柄拘束中における高橋の供述(記憶を整理したもの)と、他の関係人の供述が、高橋夫婦の十六日午後四時過ぎ福島駅へ着いてから夜八時半頃盆踊見物に出かけるまでの間の行動につき、連続して時間的間隙なく、見事に合致しているのであつて、このことは高橋キイの証言と高橋の法廷供述の真実性を強く裏書きしているものである。この見事に一致している事実と、その間組合関係の者に会つていない事実、盆踊見物にはセツの孫(八歳)を連れている事実に照し、盆踊見物に出かけて夜十時半頃帰宅するまでの間の行動については、第三者の供述等による直接の裏付けはないが、身柄拘束中の高橋の供述とキイの供述の合致することにより、右裏付諸事実と相まつて、高橋キイ証言と高橋の法廷供述を信用して誤りないものと認められる。これによれば、その間全く組合関係の者等から赤間自白の集合時刻、場所の連絡を受けた事実がなかつたばかりか、これを受け得る機会も全くなかつたことを肯認し得られる。かような証拠関係からは、もはや、検察官主張のように、右の間単に福島市に居たという事実だけから、その連絡を受け得た筈故、具体的証拠がなくとも、その連絡を受けたと認めて不合理でないなどということは許されない。

5 高橋アリバイを直接立証するものは、高橋の法廷供述は別として、妻の高橋キイ証言のみ。検察官はキイ証言の信用できない理由として、具体的事由と妻たることによる一般的不信用性をあげている。その具体的事由はとるに足りない。では妻たることによる一般的不信用性についてはどうか。

これまで、1から4までに説明した諸事実を要約し、別項で説明する事実を附加すると、次のようなことがいえる。検察官の主張する高橋アリバイ否定の根拠が一つも認められないこと、高橋が十六日午後福島駅に着いてから夜十時半頃盆踊見物して帰宅した時までの行動につき、高橋キイ証言と高橋法廷供述を信用し得る根拠のあること、翌朝自宅ラジオで本件列車事故の内容を知つたものであること、セツらに気付かれずに、赤間自白のように犯行に出かけ、家に帰つて入ることは、その可能性が甚だ少いこと、しかるに十六日夜おそく出かけ翌朝帰宅したなどということには誰も気付いていないこと、別項で説明するように高橋の十三日アリバイ成立の蓋然性高く、列車顛覆企図に関する会合などに関係した事実の全く認められないこと、十六日午後福島へ帰つてから赤間自白の集合時刻場所の連絡をうけた事実なく、受け得る機有のあつたことも全く認められないこと、別に説明するように高橋の歩行機能がある程度常人より劣るとみられるのに、米沢から福島へ帰つた後、夜おそくまで盆踊見物をし、若し犯人ならば、それに続いて一睡もせずに翌朝六時頃まで山越えを含む七里十町余りの道を歩き、その間線路破壊作業をしたことになるのに、翌朝七時過頃には自宅のラジオで列車事故を知り、平常どおり国労事務所に出勤し、調査団に加つて数時間調査活動をして帰つたこと、以上の諸事実が認められる。

これらの諸事実を併せ考え、さらに、後述の高橋鶴治が十七日早暁松永橋袂の土堤にしやがんんでいる三人位の人影を見たというのは、赤間自白にいう本田、高橋、赤間の三人とは全く別の人影であつたと認められること、及び本田アリバイの成立が殆んど全く決定的であることを参照すると、高橋が妻子と十六日夜盆踊見物から帰宅後、翌十七日朝まで、セツ方二階に妻子と共に寝ていた旨の高橋キイ証言及び高橋の法廷供述も、高橋の身柄拘束中の右両名の供述調書の各供述の合致することにより、前記数々の裏付証拠と相まつて、その真実性が裏書きされたものとみて、誤りないと認められる。前叙のように裏付証拠がトコトンまで揃つている以上、われわれの良識は、高橋キイ証言と高橋の法廷供述が真実であるとみざるを得ないであろう。高橋キイ証言の妻たることによる一般的不信用性は払拭せられたものといつて過言でない。

かくて、高橋アリバイ成立の蓋然性は甚だ高いものといえる。

その三、赤間自白について

序説 赤間自白の重要性

赤間自白なくしては松川事件は存在しない。

赤間自白は本件検挙の端緒を作り、松川事件の骨格を形成した。赤間自白は松川事件の大綱を伝えると共に、実行行為の決め手であり、一五日国鉄側謀議の決め手でもある。いな、事案全体の決め手である。

まこと、赤間自白は、自白の系譜からみれば、まさに、アダム・イヴである。赤間自白から次々と他の自白が生まれていつた。赤間自白なくしては、松川事件をかたちづくる総ての自白は生まれてこなかつたであろう。

赤間自白は、自白のみによつて構成されている松川事件の構造からみれば、文字どおり、扇のカナメである。そのカナメが崩れれば松川事件は全体が崩壊する。

その赤間自白は、従来、自白中でも最も信憑力のあるものとされ、その自白の真実性を確信すべき有力な根拠が数々あるとされ、その確実性は不動のものとみられてきた。

しかるに、当審に現れた動かすことのできない新証拠により、既に説明したように、赤間自白において本件の最も重要な役割を演じた人物の一人と目されている本田被告のアリバイ成立が殆んど決定的であることが確証され、実行行為者の一人とされる高橋被告のアリバイ成立の蓋然性の高いことが明認されたのである。右の両名は、捜査の経過からみると、捜査の糸口をつくり、その核心をなしている。本田は、本件列車顕覆事故発生の日に国鉄労組の調査団に加わり、途中別れて松川駅で別件の逮捕状で捕えられた矢部寛一郎の口から当朝本田の矢部に話した相楽電話のことで玉川警視の警視の耳に入り、不審を抱かれて、以来執拗な追及が開始され、一方、高橋は、これまた本件事故発生の日の前記現場調査団に加わつた時の行動から庭坂事件と結びつけられて不審がられ、翌日附の詳細な捜査復命書にはじまつて、スパイ的女性も加わつた聞込み捜査が開始されているのである。

この本田アリバイの決定的成立と高橋アリバイ成立の高い蓋然性は、まさに、松川事件の扇のカナメを飛散にいたらせる強力な致命的第一矢であるといつても過言ではない。

ところで、謀議関係特にこの連絡謀議については、関係被告らの自白の真実性を強く疑うべき所以が、既に、上告審判決により明解にされた。国鉄側と東芝側とを結びつける連鎖として、本件の全貌を伝えるものとされ、本件謀議関係の決め手であり、赤間自白とならんで最も重要な自白とされている太田自白は、上告審判決により、その真実性に強い疑いが表明されている。謀議関係で、赤間、太田両自白の間隙を縫うものとして、高く評価されてきた加藤自認も、その信用性が同様上告審判決により疑われ、さらに、謀議関係というよりも、バール・スパナ持出し関係において、また、佐藤一、浜崎両名の東芝側実行行為者とされる者の現場への出発及び帰来関係において重要な供述をしている大内自白についても、上告審判決により、太田自白に次いで変化が多く、架空と断ぜられた顛覆謝礼金の自白をも含むものとしてその全自白調書に対する信憑性に、同様疑いがかけられている。

そうして、実行行為そのものの認定が崩壊すれば、謀議関係の点はもはや追及の必要がないとさえいえるのである。実行行為の認定ができない以上、謀議関係は法律上犯罪として成立する余地がないからである。

実行行為認定の決め手である赤間自白のこの重要性は、慎重が上にも慎重に、その真実性の吟味に吟味を重ねられなければならない。

以下、赤間自白の真実性について、さらに、詳密な考察をする。

一、集合出発地点の変更、同地点から永井川信号所南部踏切までの道筋の変更、及び帰路の一部の変更について

1 脱線顛覆作業は、きまつた列車通過の合い間を狙つてやらねばならない犯行であり、その上本件の場合東芝側の者と犯行予定地で落ち合わなければならないのだから、赤間ら三人の待合せ場所と時刻を誤つては犯行ができなくなる。この極めて重要なこと、しかも待合せ場所は赤間自身の申出でで決めたというのだから、赤間らが真実犯行をやつたのなら、その時から一ケ月ばかりの後警察で取調べられた時、記憶違いして間違えて述べたなどということは、常識上考えられない。しかも、その地点は赤間が小学校から十九歳の当時まで住んでいる家のすぐま近くだから、間違えようにも到底間違えようがない熟知の場所なのである。それを、はじめ記憶違いして述べていて、あとでよく考えてみると実は間違つていたなどということは、経験則上あり得ない。

だからこそ、従来、赤間は最初概括的に述べ、後に具体的に特定して述べたに過ぎないものとされてきたのである。

ところが、新証拠の出現により、まさに、赤間の弁解どおり、最初に自白した集合地点とそこから永井側信号所南部踏切に出るまでの道筋(9.19玉川)が、その弁解どおり変更されたものである(9.21玉川)事実が確証された。そこには、見解の相違を容れる余地は全くない。

そして、その変更した道筋には本田清松方があつて、十六日夜十二時過ぎまで電燈が煌々とつけてあつた。赤間がそのように供述を変更しなければならぬ理由は、その弁解するような事情以外何一つ見出せない。赤間が十八日夜自白したその翌十九日、武田巡査部長が、部下と赤間自白コース実地調査に朝出かけ、道筋の目ぼしい所で簡単な聞込みしながら、踏査したことが、武田、玉川両証言の全体から肯認できる。武田証言はいう。赤間はあとで考えてみると、実はそこでは人家に近く人に見られるおそれがあつて具合が悪いから、別の場所に変更すると供述した、と。ここに、はしなくも取調官自身の口から、赤間自白当時の心境が証言された。赤間が「他意あつて、殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もないとすれば、それは同人があるいは自己の経験しなかつたことについて、取調官から尋ねられた際、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるものではないかとの疑いさえある」ことになるものといわざるを得ない。

供述を変更した理由は、まさに、赤間の弁解どおり赤間コースを実地調査して帰つた武田部長から、清作方の前を通つたのだろうといわれて、それに合わせて供述したものと強く疑わざるを得ない。

2 帰路の一部(平石トンネルの上から平田村地内道路に出る道筋)の変更も、前記新証拠9.19、9.21各玉川調書及び30.9.20信夫村村長、30.9.20金谷川支所長の各証明書の出現により、まさに、赤間の弁解どおり、その供述が変更されたものであることが確証された。そこには、水掛論を容れる余地は全くない。

その変更した理由も、全く右と同じ事情で、赤間の弁解どおり実地調査から帰つてきた武田部長からいわれたのに合わせて供述を変更したものと強く疑わざるを得ないのである。

3 犯行現場への往復路の如きは枝葉末節のことで、問題は犯行そのものであるとの見解がある。まことに、犯行そのものについて動かない確証のある場合はそのとおりである。けれども、本件のように、被告らが自白の任意性、真実性を極力争い、犯行そのものについての証拠が自白だけで、これを裏づける確証とて何らないような場合には、往復路の自白の真実性を確かめることは、同時に犯行そのものについての自白の真実性を確める有力な方法とならざるを得ない。

二、帰途森永橋の袂で休憩し、その際肥料汲みの車をひいてゆく農夫(高橋鶴治)を見たということについて。

1 赤間自白にいう本田、高橋、赤間の三人が脱線顕覆作業の犯行の帰途、森永橋の袂に到着した推定時刻は、標準時でいうと、午前三時十分頃(サンマー・タイム四時十分頃)であり、赤間自白によると、同所で約二十分間休憩したというのであるから、赤間らは午前三時十分頃から三時三十分頃まで森永橋附近にいたということになる。このことは検察官の自ら主張するところである。

2 本件八月十七日早朝肥料汲みの車をひいた高橋鶴治が森永橋を通つた際、三人位の人影を見た時の明暗度は、同人の証言によると、「暗いという程ではなく、明るいことは明るかつたと思う。夜明けなので薄暗いという程でもなかつたようだ」というのであり、高橋鶴治10.18山田調書によると、「三人の居た場所は橋から東寄りの、橋から五、六間離れたところで、二〇歳から二五歳位の男で、服装は三名とも白いものを着ている者はなかつたと思う」というのである。

3 当審が本件当時の八月十六日と同じ八月の月齢に合わせ、かつ日の出時刻も本件当時の八月十七日のそれより僅か二分しか早くない日の八月十四日施行した検証の結果によると、午前三時五十二分の時の明暗度が「一メートル以内では、人の顔や服装が区別できるが、それ以上離れると、ハッキリ識別できない」程度である。まして、それが午前三時十分頃から三時三十分頃の間の明暗度となれば、まだ真夜中で、高橋鶴治の供述する五、六間離れた所にしやがんでいる人間を見て、それが人間であるかどうか、その性別、およその年齢、服装、明確な人数等を識別することは全く不可能であることが認められる。このことは、当審検証における事故現場の検証終了時が午前三時の一寸前の午前二時五十二分であつたことを想起すれば、同検証に立会つた者は何人も直ちに理解できるところである。

当審検察官が折角自ら体験した当審検証の結果による明暗度をとらず、一審受命裁判官が本件八月十七日の日の出時刻より三十一分も早い日の出時刻である七月八日行つた検証の結果認められる明暗度を基準にして、八月十七日午前三時十分ないし三十分頃の明暗度を推定された理由が奈辺にあるのか、了解に苦しむところである。検察官の右推定は日の出時刻の前の時間さえ同じなら、例えば、日の出時刻より一時間前の時刻における明暗度は、七月であつても、八月であつても同じ明るさであるとの考え方に立つているのであるが、その明暗度は日の出前の時間が同じであつても、一ケ月ちがつた七月と八月とでは、相当に異るのである。

弁護人は検察官のこの主張の非科学性を何ら衝こうとはせずに黙過しているのは、余りにも寛容に過ぎる。

以上の次第で、高橋鶴治が早朝森永橋の袂近くで三人位の人影を見たのが、本件列車事故のあつた十七日早暁であつたとしても、その人影は赤間自白にいう本田、高橋、本間の三人の人影でなく、全く別の時刻における別の人達の人影であつたことは極めて明白である。新証拠によれば、そうした別の若者達のいる場面は十分あり得るのである。

かくて、従来赤間自白を裏付け、赤間自白全般の真実性を確信すべき最も有力な根拠の一つにされてきた事実は、全く潰え去つたのである。

三、一審の森永橋附近検証の際、赤間が本田に、「俺達が休んだのは、もう少し向うの方だつたなあ」といつたとされる赤間失言について

1 佐藤昇証人は、一審検証の際本田被告の戒護巡査であつた者であるが、同証人の証言によると、森永橋附近で右検証に立会中の赤間被告が、本田被告に対し、「俺達の休んだのは、もう少し向うの方だつたなあ」というのを聞いたというのが、いわゆる「赤間失言」である。

この佐藤昇証言によつて認められる赤間の右発言を、その発言された時の諸事情から切り離して、右発言の言葉だけをとらえてみれば、赤間らが、赤間自白のように、本件犯行の帰途実際森永橋附近で休んだ事実があつたればこそ、不用意にもトッサの場合、重大な失言をしたものと解されるであろう。このような解釈から、右「赤間失言」は、従来、赤間自白の真実性を担保する有力な資料とされてきたものであり、一般にもそのように思われてきたもののようである。そうして、「赤間失言」の事実は、同時に、本田アリバイ、高橋アリバイを否定する有力な資料とされてきたのである。

2 ところが、右赤間が発言した際行われていた検証は、赤間自白で赤間らが休んだという場所、及び高橋鶴治1018山田調書で、高橋鶴治が見た三人位の人影がしやがんでいた場所と述べている所が、いずれも森永橋の南袂から川下へ約五、六間離れている場所となつているのに、高橋鶴治の公判廷における証言では、約三〇間位離れている場所となつているので、大塚弁護人の検証現場における申請で、その約三〇間離れた場所とされている所を検証している際だつたのである。

右のような検証の目的内容からみて、赤間がその際、赤間の弁解するように、「俺達の休んだとされている所はもつと向うの方だつたなあ」という趣旨で、佐藤昇証人の証言するような発言をしたとしても、少しも不自然ではない。その時いかなる目的内容の検証をしていたかを知つている者ならば、赤間の右発言を赤間の弁解するとおりの趣旨に解して、別段不自然さも感じなかつたであろう。

ところが、佐藤戒護巡査は、同人の証言するように、その時どんな目的内容の検証をしていたか知らなかつたのである。だから、同巡査がただその職務的先入観から、赤間がその場合の検証の目的内容から当然発言することもあり得る赤間の弁解するような意味の言葉を、右検証の目的内容から切り離された、ただその言葉だけの現わしている意味に聞き違えたとしても、少しも不思議ではない。その片言隻句の言葉自体が、右先入観から歪められて受けいれられる場合もあり得よう。当審に現れた新証拠の佐藤昇25.6.8鈴木調書の供述内容は、その間の事情を物語つていて、余りがある。

3 検察官は、赤間は当時本田が犯行を否認していることを知悉している筈であるから、仮に赤間の弁解するような言辞を用いたとしても、その場合最初から犯行を否認している本田にかく呼びかける何らの理由もないから、その弁解は不合理であると主張する。けれども、理屈の上では不合理だが、その不合理性は検察官も認めるトッサの発言を抑えるほどにすぐ気のつくものではなく、検察官の主張はその主張するような解放感にある十九歳のチンピラ赤間に対し、完全な人間性を要求する非現実的な無理な主張である。

さらに検察官は、赤間も本田も佐藤昇証人に対し、その発言内容を否定する反対尋問をしていないことを非難する。しかし、この非難も現実的でない。反対尋問しない場合は、素人はもとより弁護人でも、色々な事情があるであろうし、人間は誰しも不完全なものである。反対尋問しないとか、証拠申請等の訴訟活動をしないとかいうようなことを、重大な心証形成の資料とする場合には、他の重要な証拠との全体的関連において、深い吟味を要する。証言内容を否定する反対尋問をしないということから、重大心証をとることのいかに危険であるか、本件の場合ほどその切実さを示す例はないであろう。高橋鶴治の見た三人位の人影が赤間自白の本田、高橋、赤間とは別人の人影であつたことが明認され、本田アリバイの成立が決定的、高橋アリバイ成立の蓋然性も甚だ高く、さらには後述する赤間自身のアリバイ成立の蓋然性が甚だ高いことに鑑みれば、けだし思い半ばに過ぎるものがあるであろう。

四、永井川信号所南部踏切を通過したということについて

1 当審に現れた新証拠の赤間最初の自白調書9.19玉川調書以降赤間の全自白調書を通じ犯行に赴く際永井川信号所南部踏切を通過したと供述しているのに、同所の臨時踏切警戒テントのことを述べているものは、最後の自白調書である10.19田島調書だけである。赤間が起訴されたのは一〇月一三日であるから、この臨時踏切警戒のことは、起訴の基礎資料にはなつていないわけである。右田島調書以前の調書は、この点に何らふれていないばかりか、いずれもみな南部踏切をなんのことなく通過した供述になつているのである。

赤間はその年の七月整理退職になるまで、永井川線路班に線路工手として約四年間つとめ、本件列車事故の約七ケ月前の一月にも虚空蔵様のお祭の時、この踏切の東側窪地に同線路班に一つしかない濃緑色のテントを張つて臨時踏切警戒に当つた経験があるのである。

そのような経験のある赤間が、真実当夜南部踏切を通過したとすれば、当審検証の結果に照し、踏切の余程手前から平常はない電灯に気付き、さらにはテントを認めて、今晩は虚空蔵のお祭で臨時踏切警戒だなと気付かない筈がない。踏切番はみな顔なじみばかりだから、重大犯行に赴くという赤間がその踏切を通過する筈がない。赤間が10.19田島調書で、「早く気がついていたならば、私どもは見つかつては大変だから、別の道を通つたと思う」と述べているとおりで、それがわれわれの常識である。

2 その常識に反して早く気がつかなかつたという10.19田島調書の供述内容自体が、当夜の客観的事実に全く反し、赤間自白にいう赤間ら三名が当夜南部踏切を通過した事実のないことを物語つている。赤間が当夜特に六〇ワットの電灯がつけられていた事実を全く知つていなかつたことは、「暗くて遠くからはテントが見えず、踏切までさしかかつてからテントのあるのを見てハッとした」旨の赤間供述自体から明らかである。テントの色が草色だと述べたのは、もともとその色を知つていたからその記憶で述べたもので、当夜見た感覚から述べたものではない、夜間電灯に照らされたそのテントの色は草色には見えないからである。

「誰も踏切には居らないし、人通りもなかつたので、急ぎ足で、その踏切を渡つた踏切警戒に当つていた人達はテントの中に入つていたものと思う)という供述自体が、当夜テントが踏切道路に面して立てられ、その道路は六〇ワットの電灯に照らされて明るく、通行人の姿が照らし出されるので、警戒番人がテントの中に入つていても、テント内から通行人を監視できるという事実を全く知らなかつたことを明示している。赤間が弁解するように、当夜も赤間が正月の臨時警戒をした時と同様に、テントは踏切の東側の窪地に立てられてあつたものと想像し、それだから番人がテントの中に入つておれば、踏切を通る人は見られない筈だと思つて、供述したがためなのである。

新証拠の佐藤政吉11.11田島調書はこのことを明確に裏付けている。

3 赤間を取調べた検察官は、赤間が電灯の点及びテントの位置の点で、当夜の南部踏切臨時警戒の実情を知つていないことがわかつて、赤間自白の真実性に疑いをもつたことは明らかである。だからこそ、検察官は良心的に、直ちに、引続き新証拠の佐藤政吉10.21、11.11田島調書を作成し、テントは築堤の下に張つたのではなく、却つて道路よりも高い所に張つたこと、六〇ワットの電灯を特につけて貰つて引きあげるまでは汽車の通らない時も消さなかつたことの二つの重要点を明確にした。従来、証拠に出されている10.19田島調書には出ていないが、赤間の弁解するように、その取調べをうけた時テントは通路に面した線路との間の窪地に張つてあつたと述べたからこそ、佐藤政吉11.11田島調書で、テントは築堤の下に張つたものではないという供述がワザワザ出ているのであつて、検察官が特にこの点をきいたためであることは明白である。

検察官は当然赤間自白はオカシイと強い疑いを抱かずにはいられなかつた筈である。さらに、良心的に、検察官は、直ちに、赤間を取調べて、その点にき再検討し、赤間自白の真実性を確かめてほしかつた。しかるに、検察官は折角右の重要点を明確にしながら、遂に赤間を再び取り調べようとはしなかつた。遺憾の極みである。

赤間自白の真実性を強く疑わざるを得ない所以である。

弁護人は、当審に現れた動かすことのできない新証拠に基いて、このような重要問題に対する証拠批判を忘れている。

五、赤間自白の一五日謀議及び国鉄側謀議参加者と実行担当者の特定について

1 赤間自白によると、最初の自白調書である新証拠の9.19玉川調書以来、一五日謀議に関する供述では、一五日国労事務所で、鈴木、二宮、阿部、本田、高橋、蛭川の六名と、謀議したが、この時赤間は高橋と蛭川との間に席をとつて腰かけたことになつている。ただ、10.1山本調書の二九項で、「私の右と左にいた者が高橋と蛭川であるかは、神明に誓つて間違いないとは断言できない」となつているのである。

けれども、一五日には高橋は終日米沢に居り、蛭川は在宅していて、二人とも国労事務所に行かなかつたことは、証拠上明白であつて、赤間自白が最初からその点で間違つていたことは、検察官も自ら認めているところである。

その高橋は、赤間自白によると、以前にはよく知らなかつた者だというのであり、その席上本田と自分の右隣りの高橋と自分が実行担当者に指名されたというのであるから、翌一六日夜待ち合わせて落ち合うために、どんな人かよく確めておかなければならないし、それに一七日朝にかけて四、五時間も生死にかかわる重大犯行を共にした者で、自白後写真を示され、面通しされて、犯行を共にした高橋に絶対間違いないと確認したとされているのである。しかも、赤間が謀議に出たのは、ただ、この謀議一回だけであり、参加人員も僅か六名で、三、四十分間も同席していたのであるから、右隣りの高橋がどんな人か注意して確めなかつた筈はない。そのような高橋が、検察官の主張するように、謀議に出席していたかどうかハッキリせず、記憶違いで、実行行為を共にしたのだから、錯覚で謀議の席にも居た筈だと思込んでいたなどということが、経験則上あり得ようか。経験則上、錯覚や記憶違いの起る筈のない場合である。

経験則上錯覚や記憶違いをする筈のない右のような重要事項について、全く客観的事実に反した自白をしたのは、われわれの良識では、赤間がそのようなことを体験したという事実が全くないからこそであるとしか考えようがないのである。既に説明した本田アリバイの成立が決定的であり、高橋アリバイ成立の蓋然性の高いことがこれを実証している。

そうして、このように自己の経験しなかつたことを恰も経験したかのように、赤間が自白したのは、赤間が「他意あつて、殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もない」と認められるから、それは赤間が「経験しなかつたことについて、取調官から尋ねられた際、ただひたすら、迎合的な気持から、その都度取調官の意に副うような供述をしたことによるもの」とみるよりほか理解のしようがないのである。

2 赤間を取調べた玉川証人は次のように証言する。「赤間の自供前に六法全書を見せて、この事件は死刑か無期しかないということを話しておいた」「赤間は最初覚悟していたようであるが、あとでせめて無期位になりたいといつていた」「本田の最初の調書をとり終つてから『真犯人ここにあり』といつたような気もする。確信をもつて調べているのでそういう言葉が出たのかも知れない」「自白が合理的かどうか、については自身では検討してみなかつた」と。さらに、玉川証人は、要するに、次のような証言をする。「赤間が最初自白をした当時、赤間は既に、本田が逮捕されていると思つていて、玉川警視に対し『本田は自白したのか』と尋ね、本田が自分でやつたことを隠くしていた、赤間が顛覆作業をやつたと言つているものと思い込んで、本田を怨み怒つて、『あの奴、自分が先頭になつてやつていながら、俺にばかり罪をかぶせたら承知しないぞ』『どんなことがあつても闘う』と言つたのであるが、当時玉川警視は本田の顔さえわからぬし、名前を聞いたことさえないので、玉川の方からそんなことを言つて聞かせる筈はなく、赤間がそのように思い込んでいた事情はわからない」と。

けれども、当審新証拠の捜査復命書に徴しても、松川事件捜査の事実上の中心人物である玉川警視が本田のことを知らなかつたなどという証言はとんでもない話である。また、赤間が逮捕されて外界との交通を一切遮断された一〇日間ほどの間に、本田が自分でやつたことは隠くして赤間がやつたのだと言つていると思い込んで同人に対して恨み怒り、共産党、組合幹部に対し憎悪の念を持ち、どこまでも闘うと一途に思いつめるに至つた、というのである。われわれの良識では、赤間をしてそのような強烈な感情を抱くに至らせた者があるとすれば、それはその間における赤間との唯一の接触者である取調官の玉川警視ら自身以外には考えられようがないのである。玉川証言自体が、まさに、赤間の弁解するとおりの事実を裏書きしているのにほかならない。同時に、玉川証言は、それ自体、赤間がいくら無実だといい張つても共産党員で組合幹部の本田らが赤間がやつたのだといつている以上、もう助かりようがない、こうなつてはせめて無期になりたい、死刑だけは免れたい、という追いつめられた気持になつていることを如実に証明している。このことは、新証拠の赤間被告9.24の土屋調書、赤間博10.7供述書、証二二号の赤間より土屋署長宛葉書、赤間の一審法廷における「あれほど可愛がつてくれたやさしい山本検事から死刑の求刑をうけた。山本検事からは裁判長も同情しているといわれ、自分でもその気になつて……云々」の供述によつて裏打ちされている。

さきに武田証言によつて確証された赤間の自白当時における取調官に対する迎合的心境は、今ここに、玉川証人によつて明言された赤間の「せめて死刑だけは免れたい」という追いつめられた心情によつて、不動の前提的裏付けがなされ、同じ玉川証言によつて明認される、この助からないという苦しみは共産党や組合幹部の策謀によるという絶対的感情がその背景的裏付けをなしていることが確証された。そうして、その赤間の心境を操るものが、玉川証人の自ら認める「真犯人ここにあり」と一喝し、自白の合理性など考えぬ、いわば確信過剰型的取調べぶりなのである。

この取調官自身の口によつて確証された事実には、そこに、見解の相違や水掛論を容れる余地はない。検察官の立場においても、そこに人間性を認める限り、右確証された赤間の心情、心境は到底これを否定するに由ないであろう。

弁護人は、このような取調官自身の口から証言されている、何人も争えない不動の事実に基いて、問題の核心を衝くこれを忘れている。

3 ところで、赤間の弁解によると、本田と高橋を謀議参加者でかつ実行者であると述べたのは、玉川警視から本田という者は自分がやつていることは隠くして赤間がやつたといつているといわれて憎しみ怒り、高橋という者のアリバイが崩れているといわれて、同人がやつたに違いないと思つたからであるというのである。本田についてはその裏付けのあること前叙のとおりである。高橋についても、当審新証拠の捜査復命書、大河原芙美子証言等により、玉川警視の高橋アリバイが崩れているという見解を当初から持つていたもので、赤間を取調べる際そのように話した疑いが極めて濃厚であり、赤間のこの点に関する法廷供述は信用できる。

鈴木、二宮の名を挙げたのは、事故当時頃の新聞に、武田と二宮が列車顛覆に関係あるように出ていたのを、鈴木と二宮が関係あるように出ていたとばかり記憶違いしていて、二人がやつたのではないかと思つたからであるというのである。八月二一日附福島民報(証一二八号)には、まさしく、武田と二宮が犯人らしく記事にされていて、これまたその裏付けがある。特に、鈴木の一五日アリバイの成立が決定的に証明されることを思えばなおさらのことである。

阿部については、国鉄労組でやつたと思い込まされていたから、組合の幹部をしている阿部もやつたものと思つて述べたというのである。そのように思い込まされていたことは前叙説明のとおりで、阿部は組合の有給書記で活躍していた実力的人物であり、特に赤間は八月二七日頃阿部から保釈保証金一万円の返還方を催促されていたのであるから、そう思つたのも尤もである。

組合幹部中、斎藤干、武田久、渡辺郁造、梅津五郎の名を挙げなかつたことに関する赤間の弁解も、それ相当の裏付けがあつて、首肯できる。岡田十良松の名を挙げなかつたのは、国鉄労組の役員であることを知らなかつたのであり、このことは赤間最初の自白調書である新証拠9.19玉川調書により明らかである。

まさに、赤間自白における一五日国鉄側謀議の参加者及び実行担当者の特定についての赤間弁解は、すべて裏付けられているのである。

かくて、赤間自白の真実性を保障する最も有力な根拠と目されてきた謀議参加者及び実行担当者の特定の事実も、潰え去つたのである。

六、「赤間予言」について

1 赤間が一六日夜友人安藤、飯島に、「今晩あたり列車の脱線があるのではないかなあ」といつたとされる、いわゆる「赤間予言」は、従来、本件の基本捜査の一環として行われた素行不良者を対象とする足取り捜査面で、武田巡査部長の捜査網にかかつてきた安藤貞男、飯島義雄の口から、その夜の行動を尋ねているうちに、はからずも、出てきた言葉とされた。それ故に、赤間に嫌疑をかけた理由は合理的であり、赤間自白の経過が自然であるとされてきたのである。

ところが、もともと、素行不良者に対する前記捜査は、予言的言辞を弄した者があるかどうかを聞き出すことが、その重要目的の一つであつたことは、玉川証人の証言するところであるが、当審に現れた新証拠の9.6谷津、土屋捜査復命書、安藤貞男9.6武田調書、飯島義雄9.9武田調書、8.17佐久間、8.27青田外一名各捜査復命書によれば、「赤間予言」は安藤、飯島の取調べ中、はからずも、同人等の口から出たというものではなく、武田巡査部長が一六日夜虚空蔵様におこもりをした不良連中に、本件列車事故発生前既に事故発生を知つていた者がいるとの聞込みを得るや、予てからおこもりをしていた不良の安藤、飯島に目をつけ、急遽先ず安藤を取調べ、次いで飯島を取調べて、同人等から聞き出したものであるという反証が明らかにされた。

2 そうして、安藤、飯島が警察で最初に述べた「赤間予言」は、その点につき念を押されているにも拘らず、「脱線があつた」「脱線したんじやないか」と明確に過去形であり、さらに「今晩」という限定的な言葉は全然ついていないのである。

しかも安藤が警察で最初に聞かれたのは、本件列車事故のあつた約二〇日後の九月六日のことであるが、安藤は警察の取調べをうけた後、直ちに、飲島の許を訪ねて、赤間から脱線の話を聞いたのは一六日の晩であつたかどうかを確めたが、一六日か一七日かハッキリしなかつたという極めて重要な事実が明らかにされた(新証拠の飯島9.9武田調書により裏打ちされた当審安藤貞男証言。真に、安藤らが一六日夜「赤間予言」を聞いたのが事実であるならば、このようなアイマイな記憶の残り方をする筈がないのが、経験則である。この一事をもつて、既に、赤間予言の実態は明白である。右の事実は、翌日列車事故を知つた時、赤間との関連で、切実味のある驚き方をした供述のないことというよりも、赤間との関連では、何らの驚きをも感じなかつた趣旨の供述になつていることは注目すべきである。

さらに、驚くべきことには、赤間が原二審になつてはじめて供述し、上告趣意書で詳しく述べているところの、一七日昼過頃虚空蔵様の満願寺境内で、赤間と安藤、飯島の三名が一緒になつた機会があつて、列車脱線の話が出た旨の弁解が、殆んどこれに照応する新証拠の飯島義雄9.9武田調書の出現、及び旧証拠の原二審検証の際の安藤の指示供述、安藤の一審証言により裏書きされている、といえる事実である。

もはや、ことは明瞭である。新証拠の出現により、いわゆる「赤間予言」の実態は、予言でもなく、失言でもなく、実は、列車事故のあつた日の昼過ぎから一時頃、安藤、飯島、赤間の三名が一緒になつた機会に、その日のニュースが話題になつて出た赤間発言である、とみられる公算が、証拠上、極めて強くなつたのである。

3 当審検察官は、「赤間予言」につき「赤間失言」と改め、新証人丹治信太郎、菊地十一の両証言で補強し、特に丹治証言をもつてその重要な役割を果させようと努めた。

けれども、菊地証人のラッパ証言が信用できないことは、その証言自体に徴し明らかである。丹治証言は、赤間は自分にか安藤にか、どちらかに、「今晩、列車事故があるとか、あつたとか」いつたというのであるが、右証言前の放送記者との対談では、「今晩」という限定的な言葉はついていない。また、丹治証人は、右赤間の言葉を聞いた時、別に気にもとめなかつたといい、その理由として、参詣人達が列車事故の話をしていなかつたからだと証言しているのは、むしろ、それが過去形であつたことを物語るものである。

丹治証人は赤間発言を聞いたのは、一七日でなく、一六日夜であるというのであるが、十余年も前一七日に虚空蔵様で赤間に会つたことがなかつたかどうか記憶に残つている筈がない。そもそも、当審検察官は、当審で安藤証人の尋問を求めたのは、「赤間予言」を聞いた時丹治証人も側に居たことを確めるのが、殆んど唯一最大の目的であつて、尋問事項に掲げて申請したにも拘らず、その安藤証人に対してこの点を遂に一言も尋問しなかつたのは、いかなる理由によるものか、推測に難くない。仮に、一六日夜満願寺境内で赤間から列車脱線のような話を聞いた事実があつたとしても、それはその頃よく人の口の端に上つた列車脱線の話題の意味合い程度の話に過ぎなかつたものとみられる。丹治証人は、赤間発言を聞いた時も別に気にもとめず、翌朝本件列車事故を知つた時も、赤間発言との関連において、これというほどの印象を受けていないからである。検察官の強調する「強い印象」を受けたなどという証拠は絶無なのである。

かくて、赤間自白の発端をなし、赤間自白の真実性を確信せしめる出発点の重要資料とされた「赤間予言」も、崩れ去つたのである。

七 赤間アリバイについて(新証拠「赤間ミナ9.17土屋調書」の出現)

1 赤間が、お婆ちやんが自分がその晩帰つたことを知つていると訴えたのに対し、武田巡査部長から、お前のお婆さんはお前がいつ帰つたのか知らないと言つていると、「赤間ミナの警察調書」を読んで聞かされ、その署名押印のところを見せられて、絶望の極、赤間が自白するに至つたものであることが、新証拠「赤間ミナ9.17土屋調書」の出現により、まさに、赤間の弁解どおり事実であることが、明確となつた。

従来、「赤間ミナの警察調書」は、当時証拠として出されていた「赤間ミナ9.26山本調書」とほぼ同趣旨のことを述べているものとされ、従つて、武田部長が赤間ミナの供述を偽つて赤間に告げ、それによつて虚偽の自白をさせたことはないと認められる、とされてきた。また、当然、検察官が赤間ミナの供述を歪曲して記載したとも認められないし、かつ記録に徴し、諸般の証拠上、右「926山本調書」中の供述が真実と認められる、とされてきたのである。

ところが「赤間ミナの警察調書」が仮面をぬいで、「赤間ミナ9.17土屋調書」となつて当審に出現してみると、同調書の供述内容は、「赤間ミナ9.26山本調書」のそれと実質的に全く異るものであり、却つて、新証拠「赤間ミナ10.6大塚録取書」のそれと実質的に合致するもので、「9.26山本調書」中の供述は真実でなく、武田部長はミナの供述を偽つて赤間に告げたものと認めざるを得ないことが、極めて明白となつた。

当審検察官が、この重要な新証拠「赤間ミナ9.17土屋調書」を中心とする問題に全くふれていないのは、無理からぬことである。弁護人は、この新証拠の平面的な解明のみに止まり、他の重要証拠との綿密な比較吟味により、そこから引き出せる赤間アリバイの確証を論証することを忘れている。

2 「赤間ミナ9.17の土屋調書」の供述内容は、自分の記憶としては、勝美は十六日の晩は十二時から一時頃帰つてきたように思うという趣旨で、ただ断言はできないから勝美が帰つたか向うか不明であるという不合理な意味をなさない供述を附け加えているのである。その附加部分をのぞけば、新証拠「赤間ミナ10.6大塚録取書」と、さらに、ミナの一審証言と大体同旨である。「赤間ミナ9.26山本調書」の供述内容は、自分としては勝美が何時頃帰つたか知らないという趣旨である。

ここで、注意すべきは、赤間が逮捕直後武田巡査部長に対し、「私その晩十二時頃家に帰つたが、その際お婆さんが遊びに来た親戚の悦子ら三人を小用に起し、悦子が寝床に戻つて寝てから、その髪の毛を引張つた」と弁解した旨武田巡査部長が証言していることで、貴重な証言である。

3 結局、赤間の逮捕直後身柄拘束中に述べた供述も、「赤間ミナ9.17土屋調書」も、「赤間ミナ10.26大塚録取書も、赤間が十二時頃から一時頃までの間に帰宅して寝たという意味において、表現の多少の差はあつても、同旨であるといつて差支ない。(午後十二時頃から一時頃であることは新証拠により補強される南正三証言により認められる。)この事実を、さらに、不動にし、決定的にするものが、次の具体的な動かぬ事象である。

(1) 悦子ら三人の子供が赤間方に泊つたのは十四十五、十六の三日間の祭のうち、十六日の夜だけであり、しかも悦子の髪の毛を引張つたということは、さらに特異の出来事で、赤間アリバイの上で、最も重要な決定的意味をもつ事実である。

「赤間ミナ9.17土屋調書」には、悦子が髪の毛を引張られたといつた旨の供述が全然ない。武田証人も他の捜査員が悦子に聞いたかも知れないと証言している位であり、しかも武田部長から赤間弁解の内容をきき、同部長の意をうけて、ミナを取調べたとみられる土屋巡査が、その点をミナに聞かなかつた筈はない。捜査常識上当然聞くべきことだから、ミナがそのことにつき、「赤間ミナ10.6大塚録取書」と同旨の供述(多分勝美の寝つく時と思うが、勝美に髪の毛を引張られたといつている)をしたのを、意識的に省略したものとみられても仕方がないであろう。「ミナ9.26山本調書」でも、全然省略されている。

捜査常識上、当然、悦子も取調べられてい筈の重要参考人なのに、その供述調書等の資料が全然ないのは、悦子も同旨の供述をして赤間アリバイを証明するものであつたがためであるとみられても仕方ないであろう。現に、山本証人は「私か他の捜査官か、悦子を調べることは調べた。その供述は、寝ているうちに髪の毛を引張られた記憶はないということでなかつたかと思うが、ハッキリしたことは覚えていない」旨証言している。そのような重大な悦子の供述であれば、当然その供述調書がある筈であるのに、ないのであつて、右山本証言自体が、悦子が赤間アリバイを供述したものであることを告白しているにほかならない、といわざるを得ない。

武田証人の証言する赤間弁解でも、悦子が小用から戻つて寝しなにその髪の毛を引張つたというのであり(赤間の法廷弁解では、朝悦子が昨夜俺の髪引張つたべと言つたから、悦子も自分の帰宅を知つている筈であると主張している)、それだからこそ、まだ眠つていない悦子が髪の毛を引張られたことを知つていたのである。そうでなければ眠りこけている少女(十二歳)がちよつとやそつと髪の毛を引張られた位で、目を覚して知つている筈がない。悦子の床と赤間の床とが隣合せに敷いてあつた事実も、寝しなにその髪の毛を引張つたことを裏書きしている。

そうして、十九歳のチンピラ若者が十二歳の少女の髪の毛を寝しなにイタズラ気分で引張るということは、あり得ることであつて、少しも不自然ではない。かようなことまで、アリバイ工作のため、事前に、赤間、ミナ、悦子の三者の間で打合せたなどということは到底考えられない。このことは、東京の実兄博が赤間との面会を許された時の問答(博10.7供述書)中の次のくだりからも窺える。「兄 あの晩お前は悦子の髪の毛を引張つたろう。弟 うん、引張つた。兄 でも、悦子は、山本検事の取調べの時、勝美は引張らないと言つた、といつていたぞ。弟 俺は引張つた。」

赤間自白と対比すると、悦子が小用から戻つて寝て、その寝しなに赤間がその髪の毛を引張つたのが真実であることを、ハッキリ浮き出させる。赤間9.19玉川調書には「家に帰つたのは四時か四時半頃で、その晩泊つていた悦子の髪の毛を引張つたが、目を覚まさずに寝ていた、アリバイを作る手段としてやつたのである、云々と述べている。これではなんのためのアリバイ工作かわからない。その時刻にはミナは目を覚している。真にアリバイ工作をする必要があるなら、ミナと直接し合つてできる別の手段があつた筈である。悦子の髪の毛を引張つたこと自体が、却つてアリバイ工作のためではなかつたことを示す証拠である。

(2) 赤間が十二時頃から一時頃までの間に、悦子が小用に起きて床に戻つた時の寝しなにその髪の毛を引張つたということは、祖母ミナが悦子らを起こし、便所へ連れて行つて戻つて寝かしたのを目撃している事実を前提とする。赤間が夕食後お祭に出かけた後で、悦子らが来て泊つたのであるから、赤間としては、家に帰るまでわからなかつたわけである。赤間がその情景を目撃していたからこそ、逮捕直後武田部長に申立てたのである。

ただ、「赤間ミナ9.17土屋調書」では、悦子らを小用に起してから、そのあとで勝美が帰つてきたことになつており、「赤間ミナ10.6大塚録取書」では、十二時と一時頃の間に勝美が帰つてきて、それから二時過頃悦子らを小用に起したことになつて、喰い違つている。けれども、勝美が帰つてから間もなく悦子らを小用に起したのが正しいといえることは、悦子の寝しなに髪の毛を引張つた事実が動かないからである。赤間は悦子の髪の毛を引張つたのでよく記憶しているが、ミナとしては特に記憶しようとしたわけでもなく、同じ部屋に寝ているミナが小用に起きた時勝美がまだ帰つていなかつた晩があつて、それと記憶が混線したというようなことはあり得ることであるから、前記不動の事実に照らし、何ら異とするに足らない。

また、ミナが赤間被告の祖母であるという特殊関係は、その間に悦子という十二歳の少女が介在するから、ミナ供述の一般的不信用性の原因とはならない。前叙のように、悦子を取調べた事実があるのに、その点の供述調書等の資料のないことは、悦子が赤間に髪の毛を引張られたことを知つていたこと、そのことをミナが悦子から聞き知つていたことの真実であることを物語る。赤間の法廷弁解の真実性を裏付けている。

(3) 赤間の母チヨが午前四時頃起きて仕度をし夫有治を四時半頃工場出勤に送り出したのを、ミナが目覚めて知つていたことも、赤間アリバイの上で、前同様の重要性をもつ。赤間自白によれば、犯行からの帰宅時刻が午前四時半から五時頃となつているからである。

右の事実は、赤間自白前の「赤間ミナ9.17土屋調書」に出ており、赤間自白後の「赤間ミナ10.6大塚録取書」に出ていて、全く合致するのである。捜査当局としては、赤間自白により、右の事実が赤間自白に極めて重要な意義をもつことを当然知つた筈であるから、これまた、捜査常識上直ちに、母親チヨらをも調べていなければならない筈である(ミナの一審証言によると、警察でこの点にふれていることが窺われる)。しかるに、この点に関する供述調書等の資料が全然出ていないのは、右のような事実があつて、ミナが目覚めていて知つていたのが真実であることを物語る。当然出ていて然るべき「赤間ミナ9.26山本調書」にはこの点も一言半句ふれていない。

以上の三点は、赤間アリバイ成否の鍵を握る極めて重要な三つの柱であり、就中、赤間が悦子の小用から戻つた寝しなに、髪の毛を引張り、悦子がこれを知つているという事実は、その頂点に位するものである。ところが、従来、証拠として出されていた唯一の赤間ミナの調書である「赤間ミナ9.26山本調書」には、右の三点とも忽然として消え失せている。しかも、その供述内容は「赤間ミナ9.17土屋調書」とは全く異つた趣旨のものである。しかるに、従来、右山本調書の内容は、諸般の証拠上真実と認められ、ミナは警察の取調べでも同旨のことを述べたものとされ、赤間自白の真実性を確信せしめる有力にしてかつ重要な資料とされてきたのである。当然、右の三点が取調官にわかつていなければならない筈であるのに、何が故に山本調書から全然省略されてしまい、その供述内容が土屋調書とも全く異るものとなつたのであろうか。もはや、これ以上説明するを要しないであろう。

4 ただ、次のことを附加したい。「赤間ミナ9.26山本調書」は、赤間アリバイを打ち破る極めて重要なものである。松川事件では、検察官は多少でも重要と思われる参考人については、必ず刑訴法二二七条に基く公判前の証人尋問を裁判官に請求しているのである。しかるに、この重要極まる赤間ミナについては、証人尋問を請求しなかつたのは何故だろうか。「赤間ミナ9.17土屋調書」と「赤間ミナ9.26山本調書」の供述内容の実質的相達が、その理由を物語つていると疑われても仕方がないであろう。端的にいえば、この証人尋問を請求すれば、却つて、赤間アリバイが証明される結果となる懸念があつたためではないかと疑われても、この新証拠の出現をみた以上、弁解の余地がないのではなかろうか。また、弁護人申請の赤間ミナ証人に対しては、検察官は裁判長から反対尋問を促されたにも拘らず、尋問することはないと述べ、後になつて、右山本調書を刑訴法三二一条一項二号書面として、提出した。ミナの証言は、強調し過ぎた嫌いはあるとしても、実質的には「赤間ミナ9.17土屋調書」と同旨であり、「赤間ミナ10.6大塚録取書」と全く同趣旨なのである。七十五歳の老婆に対して反対尋問するに忍びなかつたと、従来は、考えられもしたが、仮面をぬいだ新証拠が出現してみると、反対尋問をすれば、却つて、赤間アリバイが証明される結果になりかねないことをおそれたためではないかと疑われても仕方がないのではなかろうか。

5 叙上の次第で、当審に現れた新証拠「赤間ミナ9.17土屋調書」「赤間ミナ10.1大塚録取書」を中心とした物的証拠の性格をもつ各調書の相互、およびそれらと武田証言により認められる赤間弁解との対照、それによつて裏打ちされた赤間ミナ証言、取調官自身の証言、またはそれから経験則上当然推定し得られる事実、これら確実不動の証拠関係によつて、これまで説明したように、証明し得られる赤間アリバイ成立の蓋然性は、極めて高度なものであると認めざるを得ない。同時に、従来、赤間自白の真実性を確信せしめる有力重要な資料とされた「赤間ミナ9.26山本調書」によつて肯定された、ミナが十六日夜勝美が何時帰つたかわからなかつたという事実は、今や完全に崩壊し去つたのである。

そこには、見解の相違や水掛論を容れる余地はないであろう。

しかも、武田部長の「赤間ミナの警察調書」の勧進帳読みにより、絶望的に陥つた赤間は、真犯人ここにありと大喝し、自白内容の合理性など考えないと自ら認めている確信過剰型ともいうべき捜査のベテラン玉川警視の前にたやすく自白したのである。それにより、赤間自白が、「あるいは自己の経験しなかつたことについて、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるものではないかとの疑いさえある」とみられる赤間被告の自白当時の心境が、今やここに最終的に完全に裏打ちされたのである。

そうして、「赤間ミナの警察調書」は「赤間予言」とならんで、赤間自白の契機となつたとされ、特に仮面をかぶつた「赤間ミナの警察調書」の勤進帳読みは、実に赤間自白の決定打となつたのである。しかるに、その「赤間ミナの警察調書」の仮面をぬいで出現した「赤間ミナの9.17土屋調書」は、実に、赤間自白の真実性に対する疑問への直接の決定打となつたのである。

赤間自白の出発駅から、一挙に、赤間自白の終着駅へ。赤間が自白する直接の契機となつた「赤間ミナ9.17土屋調書」は、はからずも、赤間アリバイの成立する直接の転機となつたのである。まこと、赤間自白の実態を物語るものといえよう。

今ここに、「赤間ミナ9.17土屋調書」をめぐる解明で、松川事件の本態と、赤間自白の実態が具体的に明確化されると同時に、松川事件の文字どおり扇のカナメである赤間自白の、そのカナメの中心点である赤間アリバイの成立を証する結末となつたのである。

八 実行行為(列車脱線顛覆作業)に関する赤間自白について

1 赤間自白で最も重要な部分は、もとより、列車脱線顛覆の作業そのものに関する自白である。この作業に関する赤間自白の中心点は、当夜現場で、午前二時過頃から約二十数分間の間に、赤間自白のように、継目板を取外し、犬釘、チョックを抜取つたという事実が真実かどうかということである。右の基本的事実について、赤間自白の事実性を確証する動かない証拠があれば、犯行現場への往復の自白に矛盾や不合理があつても、実行者としての犯罪は成立する。

ところが、右実行行為自体に関する赤間自白が、客観的事実に反し、その不合理性は検察官の主張するように経験則上首肯できる原因により単なる誤りに過ぎないなどと説明し去ることの到底許されない性質のものである。その主なものは次のとおりである。

2 先ず、赤間自白における作業量中、現場における犬釘、チョック抜取りの数は、犬釘が合計八十五、六本、チョック二十八個となり、そのうち犬釘十本ないし十三本、チョックの六個ないし八個を抜けないで、そのままにしておいたとしても、犬釘は七十数本、チョックは約二十個抜取つたことになる。

ところが、当日検察事務官の検証の際、及びその後も引続き証拠の収集が行われたのに、発見収集されたのは、結局、犬釘が三十八本、チョックは十二個で、いずれも約半数に過ぎない。尤も、事故発生直後の現場保存は不十分で、原二審検証の際も何本かの犬釘が発見された事実もあるので、抜取られた実際数は、発見せられた数よりも遙かに多いとみなければならないが、それにしても、赤間自白の抜取り数と実際の抜取り数との差が甚だし過ぎる。

3 次に、赤間自白にいう継目板取外しは一個所か二個所か、及び犬釘等を抜取つたのは軌条の外側だけか、の問題につき、当審に現れた新証拠9.20の玉川調書によると、明らかに、「取外した継目板は一個所だけ、犬釘等の抜取りは軌条の外側だけ」という限定的意味になつている。

ところが、現実に取外された継目板はA継目及びB継目の二個所である(従来は、さらにC継目のボルト・ナット一個を取り外したものとみられてきたが、当審検察官が写真等の比較検討で発見したように、C継目の継目板については事故前何らの破壊作業もなされておらなかつたものとみられる。)

犬釘等を抜き取つたのは、軌条の外側だけか、の点については、外軌の切断個所から一本目のレールが線路東側に十三メートルも飛んでいた事実は証拠上明白であるが、証一〇号の事故調書、武蔵鑑定書、志賀鑑定書に徴すると、外軌内側の犬釘、チョックも抜取られていた疑いが極めて強いのである。そうなると、継目板の部分の内側の犬釘については抜き取つたとする合理的解釈が許されるとしても、それ以外の部分については、赤間自白の限定的供述と、客観的事実とは完全に喰違うわけである。

4 赤間自白では、犬釘、チョックを抜き取つたのは、金谷川方面に向つて抜いたのか、全調書を通じて何らの供述記載がないことは、この点が極めて自白の真実性を確める上で重要であるだけに不審の念を抱かせる。

ただ、9.23山本調書に、図面が添付されていて、それには松川方面に向つて抜いて行つたことがわかるだけである。この点につき、赤間は山本検事から一五日謀議の席順の図面と、脱線作業の図面を書くよういわれて書いたが、自分はどちらに向つて抜いて行つたのかわからないので、はじめ金谷川方面に向つて抜き取つたように書いて出したのを、白井事務官から反対の方向だといわれて、図面を新たに書きなおして出したもので、9.23山本調書に添付されているのがその書きなおした図面である旨弁解している。

9.23山本調書の立会人検察事務官は、まさしく、白井常次郎である。それよりも重要なことは、9.23山本調書添付の二図面の紙質、紙の厚さを仔細に精査すると、この二つの図面は紙質の点でも紙の厚さの点でも異つている。これは極めて異常なことで、同時に紙を渡されて二枚の図面を書くときは、同じ紙質、厚さの紙を渡されるのが通例である。この紙賃、紙の厚さの異るという動かせない事実は、赤間の弁解の真実であることを強く支持するものといわざるを得ない。

この点は、検察官も弁護人も全く気がついていないのである。

5 証一号の四の2のボルトは、本件A継目から抜取つたものとされているものであるが、当審証人石川昭一の証言によると、右ボルトのネジ山の潰れたところがあり、ボルトにハンマーの打撃痕とみられる数個のあとがあつて、同ボルトは胴がくびれていてナカナカ継目板から抜けないので、ハンマーで叩いて抜取り、その際ネジ山が潰れたものとみられるという事実が認められる。そうすると、これは赤間自白に出ていない新事実であつて、赤間自白の虚偽であることを如実に証明するものである。

6 原二審の小山、寺門、坂の三鑑定人が松島、利府間の線路で行つた自在スパナによるボルト・ナット抜取りの鑑定実験において、特定の連続した九個を緩解することに成功したものは、坂鑑定人一人だけであつて、小山、寺門両鑑定人は自在スパナを破損して不能になつたという事実は注目すべきである。

検察官は、本件発生当時の線路保守状況は、実験当時に比して一般に不良であつたから、本件現場における継目ボルト・ナットの緊締度が低かつたとみられる旨主張する。けれども、証一〇号の事故調書、戸田政雄、高橋二介の各証言によると、本件現場の当時の保守状況は良好であつたことが認められるので、ボルト・ナットの緊締度が低かつたものとは到底考え難い。そして、普通の体力の者が証一号の五の自在スパナと同一のものを使つて、一〇秒以上出し得る力は一、〇〇〇ないし一、三〇〇瓩糎で、瞬間時には右の数値より二割ないし四割増しと認められることは、検察官も主張しているところであるが、そのとおりの緩解力であるとしても、特定の連続した八個のボルト・ナット(当審検察官の発見でC継目の一個は除外)が全部右数値以下でなければ、本件現場の二個所(A継目、B継目)の継目板を取外すことは不可能であるから、その成功の確率は甚だ少いものといわざるを得ない。

常識的にいえば、素人が証一号の五の自在スパナで、当時の本件現場の継目二個所のボルト・ナット八個を全部緩解できるということは、殆んど偶然に近いといつても、敢えて差支えないであろう。

7 赤間はその道の専門家であるが故に実行担当者に選ばれたという自白である。その専門家が重要で困難な継目板取外し作業はしないで、犬釘の抜取り作業をし、困難な継目板取り外しはは素人にも等しい本田、高橋がやつたという自白そのものが甚だ不自然であつて、信用し難い。さればこそ、赤間自白は責任転嫁のためにそのように供述しているのであつて、やつたとすれば熟練工の赤間が継目板取り外しをやつたとみられるし、これについて一応の証拠もある、という考え方がでてくるわけである。けれども、そのような一応の証拠も認められないばかりでなく、そのような考え方は赤間らが脱線顛覆作業をやつたことの確証がある場合に、はじめて許されることである。本件の場合許される限りでない。

8 列車脱線顛覆作業は、列車通過の合間を狙つて敏速に敢行せねばならぬ仕事であるから、誰が考えても、時計は是非とも必要である。しかるに、赤間、本田、高橋の誰も時計を持つており、時計を見たという証拠がないのである。時計のことを聞かれていないならば、聞かれなかつたから答えなかつたのだといえようが、現に赤間はそのことを聞かれているのに、時計は一度も見なかつたと供述しているのである。おかしな話である。

9 真に当夜脱線顛覆作業をした犯人であるならば、その時の明暗度について記憶違いする筈がなく、その供述が客観的事実と喰違うことはあり得ない。

ところで、諸般の証拠上、本件現場における当夜午前二時過頃から二時三十分頃までの明暗度は、朧月夜程度の明るさとみるのが真実に合致するものと認められる。赤間自白によるその時の明暗度はおよそ朧月夜の明るさとは全く異るもので、闇夜に近い。前夜の十二時頃までの天候と、十七日朝五時半頃の天候しか知らない者は、夜中の一時頃ないし二、三時頃も真暗な夜と推測するのが当然なのである。赤間もそうであつたのだろうし、取調官もそうであつたのであろう。赤間自白は、赤間が当夜現場における二時頃から二時半頃の天候、明暗度を経験しなかつたことを物語るものである。

10 以上の次第で、赤間の列車脱線顛覆作業そのものに関する自白が、経験則上思い違いや錯覚の起り得る筈のない事項につき客観的事実に反するのである。赤間自白の不信用性が動かぬ証拠によつて確証されたのである。

赤間アリバイ成立の蓋然性が極めて高いことが立証されてみれば、このことはむしろ当然の帰結である。

その四、浜崎自白 大内自白 菊地自白等について(バール、スパナの持出し、佐藤一、浜崎の出発、帰所関係を含む)

1 浜崎は赤間自白によつて逮捕され、浜崎自白は実行行為認定の決め手である赤間自白を補強する関係にあるものとされている。

(1) 浜崎が九月三〇日三笠検事の取調べの際、土下座して泣いた事実は、取調官三笠証人の自ら認めているところである。これは異常な出来事である。その理由について、浜崎は、死刑を免れたい利己心から、一旦は大内、菊地、小林がスパナと釘抜を持つてきたと嘘の自白をしたが、良心に勝てず、右の自白を取消して下さいといつて土下座して謝まつて泣いたというのである。三笠証人は、右三人がバール・スパナを持つてきたと浜崎が申すので、持つてきてどうするのだと尋ねると、とんでもないことをしてしまつたといい乍ら、私に対し土下座し、明日詳しく話すから、今晩は考えさせてくれといつた旨証言する。

三笠証言どおりだとすると、浜崎は自己の犯行を認めたことを意味する。そのような重大自白なら、捜査常識上、当然、一行でもよいから調書にとらない筈がないのである。また、土下座してとんでもないことをしてしまつたと自己の犯行を認め、明日申上げますといつたのが真実なら、翌日はスラスラ自白して簡単に調書ができ上つているのが通常である。しかるに、それどころか、翌日は取調べ自体が全然行われていないのである。

もはや、ことは明瞭である。われわれの良識では、三笠証言は到底信用することができず、まさに浜崎の弁解するとおり、一旦認めたのを取消して下さいと、土下座して哀願したというのが真相であるとみざるを得ない。それ以後の浜崎自白の経過内容を検討してみると、記憶違いする筈のない点で客観的事実に反する供述をしているところが随所にあるのであつて(その詳細はここでは割愛しなければならないが、例えば、バールの長さの点など後述の大内自白の場合よりも甚しいのである)、このことは右の事実を明白に裏付けている。

(2) 浜崎自白の真実性を最も強く保障する根拠と、検察官も主張し、従来そのようにいわれているものが、勾留開示公判直前、控所で偶来合わせた新聞記者に自己が真犯人であることを漏したとされている言葉である。

その要点はこうである。菅家記者がその時浜崎に会つて、「今日の公判はどうだい」と話しかけると、浜崎は一寸間をおいて、「私はやつたことについては本当のことを述べ、今日からは良心的にスッキリした気持になりたい」といつた。その話の最中、塩川記者が来て、浜崎に、「どうだい」というと、「とんでもないことをして、どうもすみません」といつた。菅家記者は浜崎のはじめの言葉を聞いた時はなんとも思わなかつたが、次の塩川記者に言つた言葉を聞いた時、やはり浜崎は事件に関係していると思い、塩川記者もそう思つた。というのである。右の言葉、特に後の言葉が浜崎を真犯人に推測させるものであるとされているのである。

浜崎は控訴趣意書で、両記者の証言するようなこと、特に塩川記者は知らない人で、同人の証言するような意味の話をしたことは絶対にないと弁解している。

この場合、注意すべきことは、浜崎が菅家記者に話して、そこへ塩川記者が来て話したという先後の順で、両者は前後関連していること、浜崎は既に自白していること、この犯行は浜崎一人でなく、共犯者とされている者が幾人もあることを浜崎が知つていること、新聞記者は既に警察関係から入手した先入観的なものを持つていたこと、等である。

これらのことを念頭において、新証拠を参照すると、次のように理解される余地が多分にあり、むしろそう解する方が合理的であるように考えられるのである。

即ち、浜崎が一寸間をおいて答えたという事実は、改まつた気持で決意を述べたものとみられるのであつて、その気持で前の言葉と後の言葉が関連しているのである。浜崎の気持としては、その時述べた言葉の意味は、「私はやつたとされていることについては、本当のことを述べ、今日からは良心的にスッキリした気持になりたい。」「とんでもない自白をして、どうもすみません」というのである。その言葉の意味を敷延すれば、「私は犯行をやつたとされているが、本当は何もやつていないのであつて、今日こそ真実を述べ、今日から良心的にスッキリした気持になりたい。とんでもない嘘の自白をして、他の被告らに迷惑かけて、どうもすみません」という趣旨に理解されるのである。

浜崎にしてみれば、既に自白しているのであるから、今更「本当のことを述べて(自白して)、今日からは良心的にスッキリした気持になりたい」という意味だとするとおかしい。不合理である。今日こそ「本当のことを述べて(真実を述べて)、今日からは良心的にスッキリした気持になりたい」と解する方が自然であろう。

「とんでもないことをしてすみません」という言葉だけを引離せば、通常、自己が真犯人であることを認めた言葉である。けれども、言葉の意味は、それがいわれた場合の事情、背景等を切離しては、その真意は理解できない。浜崎の場合は「真実を述べて、今日からは良心的にスッキリした気持になりたい」という前の言葉をうけて、しかも本件は他に幾人もの共犯者とされている人がいることを頭において述べているのであるから、「とんでもない嘘の自白をして、他の被告らに迷惑かけて、どうもすみません」という趣旨のことを述べたと理解するのが、自然であろう。そのように解するのが合理的である。僅かの時間における言葉のやりとりの片言隻句なのだから、言葉が舌足らずであることを十分に考慮しなければならないであろう。

なお、浜崎は、その際、菅家記者が嘆願書のことを話したところ、「嘆願書のことはよろしくお願いします」と答えたといわれ、そのことも真犯人であることを推測させる言動とされている。けれども、普通の素人にとつては、「嘆願書」を出すということは、有罪で刑を軽くして貰いたい場合も、有罪でなく無罪であることを訴えて貰いたい場合も、いずれも同じく嘆願書なのであつて、その奴方を区別していないのが通常である。浜崎が、「嘆願書のことはよろしくお願いします」といつたとしても、これをとらえて、自己の犯行を認めた言葉であると推測することは、甚だ無理であろう。

かような次第で、浜崎自白の真実性は極めて乞しいのである。

2 大内自白は、既に、上告審判決により、「太田自白についで変化の多い自白であり、また原判決が架空と断じた顛覆謝礼金の自白を含んでいるのであつて、同自白中の本謀議に関する部分のみを特に信憑性があるとしなければならないような特段の事情があるともみえない」とされている。

大内自白の真実性を最も強く示すものと、検察官も主張し、従来そのようにいわれてきた根拠は、勾留開示公判の控室で、弁護人に面会した時、本当にやつたのかと聞かれて、大内は「私と小林と菊地の三人でバールを取つてきたのです」と答え、その勾留開示公判では、何らの発言もしなかつた、という事実である。

右のような事実のあつたこと自体は、大内自身も原二審法廷で認めているところである。ただ、その面会の際、保原地区署の次席や看守巡査がそばに居るので、嘘の自白をしたといえば、警察へ帰つてからいじめられるという気持が強く、せつない気持で、「やりました」と言つた。開示法廷でも同様で、帰つたら取調べの時どんなことをされるかわからないと考えると、口に出すことができず、ブルブル震えていた、旨弁解する。

当時、大内は満一九歳で、父は亡く、中風の母と土工の兄、女工の妹という悲惨な家庭と党との板挾みになつて、浜崎のような骨つぽいところはなく、弱気な心的状態にあつたこと、大内は既に一〇月一八日玉川警視に対し例の架空の事実である顛覆謝礼金の自白をしていて、全く屈従的状態にあつたとみられ、しかも右勾留開示公判の前日である一〇月二二日笛吹検事によつてその点を再確認させられ、ダメを押されている心的状態にあつたこと、弁護人に面会したのはその時が初めてで、弁護人とはどんなことをしてくれる人かさえもわからず、信頼関係も生まれていなかつたこと、等を念頭において、新証拠を参照すると、大内の弁解は決して単なる弁解として排斤し去ることは到底許されないのである。玉川証人は、顛覆謝礼金のことを大内に聞くと、大内は皆んなはなんと言つているか、と玉川警視に聞いたと証言している。右取調官自身の証言からみても、大内が既に屈従的状態にあつたことは明白であつて、このような心的状態にある年少気弱な大内が、小熊次席は弁護人の要求で退席したとはいえ、なおそばに看守巡査が居る以上、警察の支配下にある者として、警察へ帰つてからどんなことになるかも知れないとおそれて、弁護人に対し、従来の自白どおりしか答えられなかつたということも、あながち責められないものが多分にあろう。そうして、開示法廷で沈黙の消極的レジスタンスをしたのが精一杯だつたのであろう、ということも理解できなくはないであろう。これを目して、直ちに、検察官主張のように、何ら取調べの不当を訴えていないのは虚偽の自白をしたものでない証左であるとみるのは無理であろう。

大内は、バールを松川線路班倉庫から持ち出し、菊地と二人で持ち運んできたとされているが、10.7唐松調書で、「バールは約一メートル位ではなかつたかと思う」と述べたあと、実物のバール(証一号の六)を示され、「それに間違いない。バールの長さを約一メートル位と申したが、私の持つてきた時は長さが鼻から口まであつたから、約一メートル四、五〇センチ位であつた」と供述し直している。当時、大内が殊更事実を曲げて供述したとみるべき節もないのに、真にバールを持ち出して運んだ犯人とすれば、記憶違いする答のない点で客観的事実に反する供述をしているのは、その自白が虚偽であることを強く疑わせる所以であつて、前記の弁解を単なる弁解として排斤するを許さないのである。

3 菊地自白の真実性を示す重要な事実として、唐松裁判官が菊地を証人として尋問した際(10.22唐松調書)、バール・スパナ持ち出しの時松川線路班の倉庫の戸をこのようにして外したといつて戸を外す恰好をしてみせた事実を、検察官は挙げている。単に供述しただけでなく、その所作までしてみせたところに真実性があるというのである。

けれども、事の真相を見きわめるには、右の事実のみを切り離して取り上げるべきではなく、唐松裁判官に対し右のような所作までして供述するに至つた経緯、事情と相関的に全体的に把握しなければいけない。新証拠の10.12唐松調書は勾留尋問調書で、その際菊地は否認しているのである。それが、10.15辻調書で自白し、10.18辻調書(四回)では架空の顛覆謝礼金の自白までしているのである。当時一八歳やつとの最年少の菊地は、既に簡単に屈従的状態に陥つてしまつているのである。そうした心理状態にあつて、しかも裁判官と検察官の区別もつかない菊地が、前に否認した唐松裁判官の前に引き出されて、ほんとうにやつたのか、どういうふうにやつたか等ときかれて、照れかくしに戸を外す恰好をしてみせた、などということは、至極あり得る自然な、むしろ当然あり得ることである。これを目して、直ちに、真実性の保障とみるのは早計である。

4 なお、小林自白も、例えば、最初は、バール・スパナの持ち出しについて、松川線路班倉庫に入つたと述べ、次に、中へ入つたのは嘘で、実は外で見張りしていた、と供述を変更している。真犯人であれば、このような記憶違いのある筈のないことを、しかも通常の経験則と逆に自白の変更の仕方をしているのであつて、この一事をもつても、小林自白のいかに信用性の乏しいものであるかは明白である。

バール・スパナ持ち出しに行つたとされる小林、菊地、大内のうち、大内のほかは皆、松川駅ホーム真向いのコンクリート土止めの上を歩いて線路班倉庫に行つた旨自白している。当審検証の結果によると、右コンクリート土止めを歩くことは人目につき易い危険な、かつ歩きにくいところであるが、別に人目につかない歩き易い倉庫へ行く順路があるのである。しかるに、態々右コンクリート土止めの、いわば「花道」を通つて、盗みに行くなどということは、およそ常識に反し、不自然であつて、目撃者とされる菅野俊広の供述に合わせるためとの疑いを起させるだけで、その自白が虚偽であると強く疑わせる資料である。

かような次第で、バール・スパナ持ち出しに関する関係被告らの自白は極めて信憑性に乏しいのである。

5 次に、一六日夜東芝側謀議で、浜崎が実行担当者に決まつたというのであるから、その実行関係については、例えば佐藤一が当夜おそく松川労組事務所に来た時の模様、佐藤一と浜崎が出発した時の状況、二人が帰つてきた時の有様等については、自白者中当の本人であるとされる浜崎が一番印象が深く、よく記憶に残つている筈であるから、同人の自白を中心に考えなければならないことは、けだし当然であろう。

ところが、一六日夜の謀議についても、浜崎は一旦断わつたというのに、そのような異常な出来ごとを、他の何人も知らず、述べていないのである。国鉄側から来る者、作業時刻等につき、太田自白、大内自白では特定されているのに、実行担当者の浜崎自白ではその点が不明なのは不自然である。

佐藤一が当夜おそく労組事務所に来た点につき、浜崎自白は一貫して、一二時過ぎから一二時半頃皆んなが合唱している時に来て一緒に歌つたというのであり(大内、園子も大体同旨)、小林、菊地は知らないというのである。守衛の丹治喜右衛門の証言によると、右被告らが歌をうたいはじめたのは午後一一時一〇分頃(これらは、特に注意していたので正確)であるから、佐藤一と浜崎の二人が出発したとされる午前一時半頃まで、その間約二時間半もあつて、不自然であるばかりか、丹治証人は、佐藤一の姿や声を全然確認していないのである。また、浜崎自白では、二人が午前一時半頃事務所を出発した時、他の者は皆見送つたというのに大内は同旨、小林、菊地、各自白では同人らは寝ていて眼をさましただけで見送らなかつたというのである。丹治証言によると、この時刻には小林も菊地も寝ていたものと認められるので、浜崎自白は客観的事実に反する。なお、この大事決行に出かけるという二人を寝ていて見送らない、などということは、およそ常識上考えられない。さらに、浜崎自白では午前三時前後に帰つて来た時は皆起きていて出迎えたというのであるが(大内同旨)、小林、菊地、園子各自白では同人らは眠つていて知らないというのである。右浜崎自白も丹治証言によつて認められる客観的事実に反し、なお大事を決行して帰つた二人を眠つていて出迎えないというのも不自然である。

以上の浜崎自白は、新証拠の10.2玉川調書により裏付けられているが、結局、浜崎自白は丹治証言によつて認められる客観的事実に反するのであつて、真に実行犯人とすれば記憶違いする筈のないことが、客観的事実に反するということは、記憶の喪失や歪曲で片附けられる問題ではない。浜崎自白が虚偽であると強く疑わざるを得ない所以である。

かような次第で、佐藤一10.13三笠調書(二回)、二階堂武夫11.6笛吹調書は、右に照し、また新証拠の佐藤一10.9桑名調書、二階堂武夫10.27木村調書による各供述の経過に徴し、その供述した理由は同被告らの弁解どおりと認めるのが相当で、その供述内容に真実性は認められない。

要するに、佐藤一と浜崎が当夜労組事務所を出かけて犯行に赴き、帰つてきたという事実は認められないのである。

その五、一五日連絡謀議(「諏訪メモ」佐藤一アリバイを中心として)と一六日連絡謀議について(附、予備的訴因)

一、一五日連絡謀議について(「諏訪メモ」佐藤一アリバイを中心として)

1 佐藤一の主張は、一五日は東芝松川工場で行われた団交に出席して午前中の交渉の終るまでおり、真の間で食事してから、杉浦と紺野が来て、紺野から報告をきき、午後は団交に一、二度顔を出し、本田基らに福島へ行つて貰つた記憶があるというのである。

上告審判決が「諏訪メモ」に与えた証拠としての位置づけは、「諏訪メモ」はもともと疑わしい太田自白、加藤自認の信用性を、さらに一層疑わしいものとしたというのであつて、本件破棄差戻しの決定打となつたとまではいえないとしても、上告審で異例の事実調をしたことからみても、重要な役割をなしたことは争えない。

2 ところで、当審に現われた新証拠によると、右「諏訪メモ」を中心として、ひとりそれだけにとどまらず、佐藤一アリバイを決定的に証する幾多の新証拠が発見されたのである。

(1) 先ず、「諏訪メモ」によつて、佐藤一は東芝の団交の午前の終りまで(常識的意味において)いたものとみられ、検察官がこれを争うために提出した「田中メモ」をもつても、これを否定できないばかりか、「田中メモ」は却つてこれを支持し、「諏訪メモ」の証拠価値を増強するものである。

「諏訪メモ」による佐藤一アリバイの決定点は、佐藤一が一五日午前中の東芝団交の終りまで出席していたかどうか、少くとも佐藤発言の終つたのが午前一一時一五分(福島行列車の松川発時刻)を過ぎていたか、の一点につきる。

「諏訪メモ」(証一三一号の一)に記載されている午前中の最後の発言者は佐藤一であり、同人の長い発言の記載で終つている。「田中メモ」(証一四二号の一)の記載も午前中の団交は佐藤一の発言で終つている。いずれも、団交終了の時刻の記載はない。ただ、「田中メモ」は右佐藤一の最後の発言の頭部に「31」の番号がついており、次「32」にという番号が書かれているのに、その下に全然内容の記載がない。

「田中メモ」の記載の状況を検すると、「31」の佐藤一の発言が終つてその要約も記載したので、次の者の発言を予期して「32」と書いたところが、その後は問答の発言がなく、ブランクになつたものとみられる。このことは何か特別事情の認められない限り、午前中の団交が終つたことを意味するものであろう。

検察官は、この点につき、事実佐藤の発言後に団交のための発言としては価値のない何らかの話がなされていたと推察されるとし、それは或る程度の時間が経過して昼食の休憩に入つたものと認められると主張する。そうして、検察官はその「或る程度の時間」とは具体的にどれほどか直接的には述べることを避けているが、検察官は佐藤一が午前一一時一五分松川発列車に間に合うよう退席したことが可能であると主張し、団交の終つたのは正午であることは検察官も認めているのであるから、その「或る程度の時間」とは約一時間に近い時間(団交の場所から松川駅まで徒歩五分位)ということになる。

これは、また、驚くべき不合理な、およそ常識では理解しかねる結論ではある。団交の発言終了後、団交のための発言としては価値のない何らかの話が延々一時間近くもなされたなどということが一体あり得ようか。吊しあげにでもなつたというなら話は別だが、それどころか、最後の発言者佐藤一の提出した巻線課の配置転換の問題が午前中きまらず、午後に話が持ち越されているのである。検察官の主張する団交が低調だつたというのは、午後の話である。佐藤一の発言終了後、団交の発言としては無価値な何らかの話が出たとしても、それはほんの僅かな若干時間だつたであろう。

右の一点を衝くだけで、佐藤一アリバイの成立はもう十分であろう。佐藤一が午前一一時一五分松川発の列車に乗れなかつたことは、この一事で余りにも明瞭だからである。

「田中メモ」が「諏訪メモ」の証拠価値を増強するものといつたのは、両者を対照することによつて、午前の団交の発言は佐藤発言が最後のものであることが明確にされたことをいつたのである。

「諏訪メモ」をめぐる決定的中心点の解明は、以上に尽きるのであるが、検察官は「田中メモ」に記載されている「八月一五日前九時三五分交渉入ル」が団交開始時刻を表示しているとし、そこから検察官の主張を引き出そうとする。けれども、団交開始時刻は本件の場合副次的の問題で、重要性をもたない。そればかりか、両メモを比較検討、これと阿部明治10.11吉良調書、10.25佐藤調書、紺野三郎10.8、11.2佐藤調書、田中、諏訪両証言を参照対比すると、「田中メモ」の「一、交渉出発ハ云々」及び「二、(組)工場経営学」の部分は、当朝九時頃から約一時間開かれた執行委員会における議題と報告で、「三、計画合意ノ件」から問答体となつている団交の記載であることが極めて明瞭である。「前九時三五分交渉入ル」は、初めてメモを取つたという田中秀教の何らかの誤りと認めるほかはな若しい。検察官主張のように右をもつて団交開始時刻とすると、会社側のメモ担当責任者が一時間もメモを取らずにボンヤリしていたという不合理な結果にもなるのである。

(2) 佐藤一被告の「一五日昼真の間で昼食をとつた」旨の法廷供述は、新証拠の木村ユキヨ9.23佐藤調書、桜内マツ9.24遠藤調書によつて裏付けられた。木村ユキヨ9.23佐藤調書は検察官も認めているように、帳簿類に基いて述べているものと認められ、また一五日連絡謀議が初めて太田により自白される前の調書であつて、その信用性は高いのである。しかも、佐藤一その他の者の食事伝票、代帳の存在が明瞭なのに、それを押収せず、または押収しながら提出しないという事実は疑惑を抱かせずにはおかないであろう。

(3) 紺野三郎証人の「昼食休みの時、八坂寮真の間で、杉浦と佐藤一に対し、私の東京出張報告をした」旨の証言は、新証拠の紺野三郎10.28佐藤調書、11.2佐藤調書、10.16三笠調書、及び(2)の証拠と相まつて、その真実性が裏付けられた。紺野は10.28佐藤調書で昼休みに佐藤一の居たことを述べており、同じ取調官による11.2佐藤調書は、佐藤一の居ることを前提として供述しているのである。中央から杉浦と佐藤一の二人だけに報告せよといわれてきたのであり、佐藤一の泊つている真の間へ杉浦と二人で行つて報告したというのであるから、真の間には佐藤一も居て同人と杉浦の二人に報告したと解するのが当然である。

(4) 本田基らが午後二時二二分松川発の汽車でビラを福島へ持つて行つたのは、佐藤一の指示に基くものであることが裏付けられた。東芝労組でビラのことを命じ得る者は中央から派遣された佐藤一と宣伝部長の二階堂武夫だけであるが、当日は二階堂は朝八時一一分発の列車で郡山へ工場代表者会議に出かけて不在だから、本田基らにビラのことを命じたのは佐藤一しか考えられないのである。

以上の諸証拠によつて、佐藤一の一五日アリバイの成立は決定的に確証されたということができる。

このことは、後述するように一五日国鉄側謀議に引き続き、本連絡謀議の座長をしたとされている鈴木被告のアリバイ成立が決定的に確証されるのであつてみれば、むしろ当然のことである。否、赤間自身の一六日夜のアリバイの成立そのものの蓋然性の極めて高いことが明認されたことを想えば、当然過ぎる帰結である。

二、一六日連絡謀議について(附、予備的訴因)

1 上告審判決が一六日連絡謀議につきかけた疑点の一であるところの一五九貨物列車の運休決定の時刻の点は、当審検察官の新たな立証によつて、従来のように午後一時頃でなく、おそくも午前九時半から一〇時頃までの間に決定されたとみられる公算が大であることが認められる。だから、加藤が午前一一時二八分福島発の列車で松川へ行く前に右の運休を知り得る可能性はあつたわけである。けれども、この問題の核心は、加藤が運休決定の連絡を受けたと認められるだけの証拠があるかということである。この点は、従来どおりでそれ以上は一歩も出ていない。検察官は福管配車指令室に電話で問合わせることは可能だと主張するけれども、このような特別運休貨物列車のことを問合わせれば、怪まれて、事件後直ちに捜査の対象となることは必定で、通常そのような危険を冒す愚は敢えてしないであろう。要するに、結果的には、上告審判決のかけた疑点の一つをも解消し得なかつたのである。

2 一六日夜の加藤による連絡謀議の決定的問題点は、上告審判決も指摘する八坂寮の組合室で本件、連絡謀議がなされたとされる村瀬武士、小尾史子のまだ加わらない約五分間の時間的間隙があり得たか、ということである。

組合大会が午前八時半頃終つてから、杉浦の提案で執行委員会が八坂寮で開かれ、また、加藤と佐藤一との間で加藤の提案で加藤らが帰る汽車を待つ時間の間、組合大会批判をかねた懇親会が同寮でもたれた。

こうした大会後の慌しい人々の入れ乱れた動きの中で、われわれは一つの動かぬ特異の出来事を見出す。その出来事とは、管理人木村ユキヨが、会合なら組合室を使つてくれと文句を言つた事実である。しかも、この管理人の文句が松川事件といかなる関係に立つか、どのような意味をもつかは、捜査段階では何人にも全くわからない出来事である。そうして、この異常な出来事はそれを経験した者の記憶に比較的強く残つているとみられることであり、特に部外者にとつては尚更といえよう。

この観点に立つて、各関係者の捜査段階における供述を検討することが、真実発見への確実な捷径である。ところで、加藤被告はこの懇親会の提案者であるから、その懇親会を何処で開くことにしたか、どういう経過で組合室で開いたか等につき特に部外者たる加藤が最もよく真実を知つている筈である。

新証拠であるその加藤の「10.24唐松調書」はまだ自認しないときの調書であるが、この調書で、既に、懇親会を開くために二階の真の間へ行つたこと、村瀬、小尾も行つたこと、管理人に注意されて階下の部屋へ行つた事実を供述しており、爾来加藤の供述はこの点につき全供述調書を通じ、この趣旨で一貫しているのであつて、その信用性は強く、この事実は重要である。さらに、新証拠の二瓶立身25.1.25供述書、菊地康男25.7.27小沢録取書と相まつて、旧証拠の浜崎10.11三笠調書、大内10.14笛吹調書、菊地10.18辻調書10.22唐松調書の真実性を裏打ちしているのである。この身柄拘束中における各被告、関係人の供述の合致ということは、まことに貴重で、動かせない事実である。

これらによれば、村瀬、小尾も真の間へ行つたが、殆んどすぐ階下へおりて、組合室で懇親会を開いたものであることが認められるのであつて、村瀬、小尾が組合室での懇親会に参加していない時間的間隙は存在していなかつたのである。管理人木村ユキヨが二回目に注意した時は、真の間の中へ入つたわけではなく、まして中の人物を確めたわけではないから、その位置によつては女の小尾に気付かないこともあり得ることであり、同女に気付かなかつたとしても、同女が居なかつたとは断言できないのである。組合室へおりてから、木村ユキヨが電球を持つて行つた時も、電球を渡したままで電球をつけないうちに夕涼に立去つたのであるから(木村ユキヨ25.7.19鈴木調書)、暗い中で小尾に気付かなかつたのはむしろ当然である。

かような次第で、加藤が連絡謀議をしたという時間的間隙は全く認められない。一六日夜の加藤による連絡謀議の存在はこれを否定せざるを得ないのである。

三、予備的訴因について

検察官が当審において追加された現場における連絡謀議の予備的訴因事実は、これを認むべき証拠は全く存在しないことは、説明を要しない。

その六、一五日国鉄側謀議(鈴木アリバイ((連絡謀議の分を含む))を中心として

1 鈴木被告の主張は、一四日夜太田町居住細胞会議に出席し、同夜は党地区委事務所に泊り、翌一五日午前九時に起床し、引続き地区委事務所に居り、正午頃から同事務所で開かれた全逓グループ会議に出席した、というのである。

鈴木アリバイの成立する証拠上の根拠は、新証拠の出現によるものであつて、次のとおりである。

(1) 新証拠の「鈴木被告10.2木村調書」で、鈴木は記憶を整理して、八月一四日午後から一五日夜までのアリバイを立証する行動、出来事につき、極めて具体的に人名等をあげて供述している。その供述内容が、上告審で初めて発見提出され、当審で証拠調した「鈴木ノート」の大綱的記載と、全体的にみて、全く合致している。さらに、上告審に提出されて当審で証拠調した新証拠の牛坂政五郎32.1.16小沢録取書、菅野藤雄32.1.19小沢録取書、及び加藤俊男25.8.5田中調書の各供述記載が、具体的にこれを裏付けている。

(2) 右の捜査段階における「10.2木村調書」の鈴木弁解に基き、捜査常識上、当然、鈴木被告が具体的に名を挙げている人々のうちでも特に不可欠の重要人物である牛坂政五郎、菅野藤雄については直ちに取調べていなければならない筈であり、現に牛坂政五郎については取調べた事実が明らかである。しかるに、その牛坂、菅野の供述調書を作成せず、または作成されても提出されていない。この事実から、取調を受けた同人等が前記各供述調書の供述と同趣旨の鈴木アリバイを立証する供述をしたものであると合理的に推定されても仕方がないことである。そうして、前記各供述調書の供述内容は鈴木の一五日アリバイを間隙なく立証して余りがある。

(3) 飯沼敏は国労福島支部福島分会の有給書記であるから同分会執行委員長の鈴木被告が、若し一五日に国労事務所に出勤していたとすれば、その日の昼日中それも午前一一時過ぎから午後五時過ぎまで映画見物に出かけて事務所に居らないなどということは、まず通常はあり得ないことである。しかるに、飯沼は同支部書記羽田照子と二人で右のように映画見物に出かけている。また、飯沼敏がその日の出勤者を取調官に述べるとき、御大の鈴木委員長が出勤しておれば、鈴木の名を挙げ忘れるということは、通常あり得ないのに、新証拠の飯沼敏10.12大沼調書で、鈴木の名を挙げていない。(なお、同調書は新証拠の羽田照子10.9大沼調書、10.18山田調書で裏付けられている)。これらの諸事実は、鈴木が一五日国労事務所に出勤しなかつたことを示しているものである。

(4) 鈴木被告は、赤間自白によれば、一五日国鉄側謀議の席上、アリバイ工作を強調しているのであるから、真に一五日謀議があつて、鈴木がその座長をしたのであれば、自らアリバイ工作を忘れて、その一五日に国労事務所に出勤したと述べることは通常考えられないことである。しかも、9.23木村調書の末尾に「八月一五日組合事務所で汽車を脱線させる相談やそんな話をしたり、聞いたりしたことはない」と述べており、一五日謀議の嫌疑はわかつていたものと推認されるのに、アリバイ工作を忘れて、9.23木村調書、9.28木村調書で出勤した旨供述している。

(5) 一五日連絡謀議の唯一の証拠である太田自白を支える加藤自認調書でも、加藤が意識して嘘を述べたという時期以前の新証拠10.28玉川調書、10.28辻調書では、鈴木が居たかどうか思い出せないと供述している。

以上の諸事実を総合すると、鈴木の一五日アリバイの成立は殆んど決定的に確証されたといえる。

2 「鈴木ノート」(証一三五号)は、その記載の体載、前後関係等を精査検討してみるに、後日に記入したものとは到底認められない。その記載内容は大綱的であるが、全体的にみて、まさに、鈴木被告の捜査段階における「10.2木村調書」の供述内容と合致している。このことは、鈴木アリバイの上に、まことに、貴重な事実である。

検察官は主張する。「鈴木ノート」は記載の体載自体からでは、いかなる目的、時期、方法で記載されたものか判断し難く、備忘録か、行事の予定か、過去の日記か判断できず、到底事実証明に役立つ証拠ではない。また、鈴木被告方から押収したものは僅か一〇点であるから、その押収ノートの中の記載によつて自己の行動が証明されているとすれば、自ら記入した本人がよもや忘れることはあるまいのに、上告審の上告趣意書提出期間後まで放置して顧みなかつたこと自体が、右ノートの記載が本来証拠として価値のないことを示して余りがある、と。

けれども、赤間自白によると、一五日謀議でアリバイ工作を強調したとされる鈴木被告のことであるから、真に鈴木が犯人であるならば、一五日の出来事の記憶の再生に苦労することもなく、右「鈴木ノート」の記載も記載自体によつて直ちに何人に対してもアリバイが立証できるように記載しておき、一審で死刑の言渡しを待つまでもなく、逮捕直後にそのノートのことを申出で、自己のアリバイを立証するのが、まず通常であろう。それが、ノートの記載からでは第三者に意味の通じない部分があり、しかも一審、原二審でも極刑を言渡され、上告してからもまだ思い出さず、小沢三千雄の発見照会の手紙によつて、はじめて気付き、欣喜雀躍したということ自体、鈴木が真犯人でないことを物語つている、とみるのが良識ある自然の見方であろう。

身柄拘束中の被告の弁解が、それを大綱において裏付ける物的証拠のノートさえあるという厳粛な事実を、検察官はどのようにみるのであろうか。そうして、当時の鈴木弁解により、捜査常識上、当然、弁解の真否を確める裏付捜査をした筈であり、現にした事実があるのに、その資料が何ら出されていない事実は、弁解を立証する供述しか得られなかつたためであると合理的に推定されても仕方のない厳然たる事実を、検察官は顧みないのであろうか。理解し難いところである。

3 さらに、検察官は、一五日に全逓グループ会議のあつたことを否定する。即ち、八月一五日に全逓地区本部で執行委員会が中斗声明について開かれたことが明らかなのに、戸田証言によれば、全逓グループ会議の出席者中には全逓地区本部執行委員の戸田本人のほか、書記長松崎進吉、執行委員星野房夫が挙げられており、執行委員会が午後まで行われていたとすれば、同人等が全逓グループ会議に正午頃から出席していると供述は措信できない、というのである。

けれども、検察官の右主張は、全逓本部の執行委員会が午後まで行われたことを前提とするものであるが、戸田証言は執行委員会は簡単に終つて、それからグループ会議に行つた旨証言しており、松崎進吉36.1.14後藤録取書はこれを裏付けている。検察官の挙げる本田嘉博11.6田島調書のこの点に関する供述は「……ような気がする」を繰返すアイマイなものであり、石井民治11.5田島調書、加藤俊男25.8.5田中調書と対照しても、右本田嘉博の供述は信用できない。

しかも、尾形証人は、一五月に全逓グループ会議のあつたことは、そのグループ会議の席上、菅野藤雄から明日東芝松川工場に首切反対応援のために全逓から代表して出てくれといわれて、自分と菅野忠美、牛坂政五郎の三人が行くことに決めて、一六日東芝松川工場へ応援に行つた旨証言し、今泉和成32.1.20小沢録取書、星野房夫32.120小沢録取書には、いずれも右同旨の供述がされている。かつ、「鈴木ノート」に「8.16東芝斗争」とある。他方、松川工場外来者控の8.16欄に菅野忠美、尾形茂、菅野藤雄の三名が、いずれも午前九時二〇分入門した旨の記載があつて、前記供述を裏付けている。このことは、全逓関係の菅野忠美、尾形茂と日共福島地区委の菅野藤雄とが予め協議ができていて、一六日松川工場へ赴いたことを示すもので、このことは一五日に全逓グループ会議のあつたことの証左であるといえる。

4 なお、弁護人側申請の当審証人戸田裕の鈴木数馬と共に全逓グループ会議に出崎した旨の証言に端を発し、検察官から鈴木数馬は一五日には土湯温泉に居てその日戸田と一緒に行動する筈なく、戸田証言全体が信用できないとして、相互に、数多くの新たな供述調書、供述録取書、写真帖、宿帳等を繰り出す、熱心ではあるが、中心点を外れた証拠合戦を展開した。その結果は結局宿帳の記載が決定的で、鈴木数馬については検察官の主張が正当と認められるけれども、「鈴木被告10.2木村調書」に出ている全逓グループ会議出崎者である鈴木某とは鈴木文雄を指し、小沢三千雄作成の各供述調書に出ている全逓グループ会議出席者中にも鈴木数馬の名はみられないのであつて、戸田証言のいう鈴木数馬の件は、鈴木数馬証言のいう本件とは別の小グループ会議の時の記憶との混線とみられ、いずれにしても、前記不動の証拠関係からみて鈴木被告の一五日アリバイの成立には影響しないのである。

以上説明の次第で、鈴木の一五日アリバイの成立は殆んど決定的に確証されたといつてよい。

その七、一三日謀議関係について(鈴木アリバイ・高橋アリバイ等を中心として)

1 鈴木被告の一三日アリバイ成立の証拠上の根拠は新証拠の出現によるもので、次のとおりである。

(1) 鈴木被告が、一三日の行動につき記憶を整理して述べた新証拠10.11、10.12保倉調書中の供述内容が、その重要点において、同被告の身柄拘束中における新証拠の加藤被告10.28玉川調書、二階堂武夫被告11.6笛吹調書、10.22、10.31、11.2木村調書、阿部被告10.3生亀調書の供述と合致する。

即ち、鈴木被告10.11、10.12保倉調書の供述内容の要点は、「一三日午前党事務所に出勤、菅野不二男(藤雄)から安達常夫、小関文夫が声明書のビラ貼りに行つたことを聞いたが、そのうち、右両名が福島警察署に逮捕されたことを聞いた。午前一一時午頃菅野不二男が右両名に面会しに行き、午後二時頃竹内七郎、橋本節治が同署へ右両名に面会するために行つた。東芝松川労組の太田省次が面会に来たが、円谷のことで来たとのことであつた。午後四時頃から五時頃の間国労事務所へ顔を出した」というのである。右のうち、安達、小関がビラ貼りに行つた点は、前記加藤被告の調書に、竹内、橋本が逮捕された安達、小関に面会に行つた点、及び太田省次が面会に来た点につき前記二階堂武夫被告の供述調書に、午後四時から五時頃国労事務所に顔を出した点は前記阿部被告の供述調書に、それぞれ合致するのである。

このことは、鈴木と加藤、二階堂、阿部が事前に打合せた等の事実がないから、その合致する内容が真実であることを物語り、鈴木被告の一三日アリバイについての法廷供述の真実性を裏付けるものである。

(2) 鈴木被告が一三日午前午後にかけて国労事務所へ行かなかつたことにつき、身柄拘束中における新証拠の武田久10.24鈴木調書、11.2草野調書と小川市吉11.10大沼調書、11.12田島調書と阿部市次10.1田島調書、10.3生亀調書とが合致している。このことも前同様鈴木被告の法廷供述を裏付ける。

(3) 鈴木被告が真実一三日の午前から午後にかけて国労事務所へ行つたものとすれば、渡辺郁造逮捕の件で武田、岡田が郡山へ行つことを当然知つていて述べる筈であるが、それが何ら述べられていない。このことも鈴木被告がその時刻に国労事務所へ行かなかつたことの一証左である。

(4) 検察官が、鈴木一三日アリバイを否定する唯一の根拠は、加藤被告の供述調書(その日斎藤千が国労事務所へ行かなかつたことは明らかであるのに、その具体的言動まであげて出勤したと供述していて、信用できない)と同被告の法廷供述であるが、前記諸事実に照し信用できない。

以上を総合すれば、鈴木の一三日のアリバイの成立は、殆んど決定的に確証されたといえる。

2 高橋被告の一三日アリバイ成立の証拠上の根拠も、新証拠の出現によるもので、次のとおりである。

(1) 高橋吉蔵証人の「八月一四日夕刻の最終バスで高橋夫婦が福島へ帰つた」旨の証言は、新証拠の長沢仙乗10.23梅津調書により、右一四日は一三日の誤りであることが明白である。

また高橋千枝子証人の「八月一二日実家から高橋吉蔵方へ帰つたが、私が帰つてから二晩泊つて、一四日の最終バスで高橋夫婦が福島へ帰つた旨の証言は、旧証拠の佐久間要吉25.7.15安斎調書、佐久間タイ25.7.15安斎調書、佐久間とよ25.7.15安斎調書により、右実家から帰つたのは一二日でなく一一日であることが動かないから、右高橋夫婦の帰つた一四日というのは一三日の誤りであることが明らかである。

(2) 高橋が真に一三日に国労事務所へ出勤したものとすれば、前日渡辺郁造が逮捕されてその対策で組合がゴタゴタしていた事実を知らぬ筈はない(現に、一二日に出勤せず、一三日に出勤した、二宮さえ右のゴタゴタを供述しているのである)。しかるに、高橋はその全供述調書を通じ、この点を少しも述べていない。11.9山本調書で「郡山へ調査に行つて帰つた者(斎藤千か武田久と記憶する)から聞いたような記憶があると述べている。調査へ出かけた斎藤千も武田久も一三日にはまだ帰つていない。高橋が一三日に国労事務所へ出勤していない事実を明確に物語つている。この裏付けだけで、高橋の一三日アリバイは確証されるといつても差支えない。

(3) 8.18、8.19佐藤昇外一名各捜査復命書に、「高橋は八月一三日の夕刻佐倉村から福島へ帰つた」旨の記載がある。捜査復命書ではあるが、僅か数日前の出来事に関するもので(内容からみて家主鈴木セツからの聞込み情報とみられる)、記憶も新鮮で、正確性があるとみられ、前記訂正されたる高橋吉蔵証言、高橋千枝子証言を裏付けるものである。

(4) 検察官主張のように、高橋が佐倉村から帰つたのが一二日夕刻とすれば、右のような客観的証拠に反するが、弁護人主張のように、その日が一四日夕刻とすると、次の客観的証拠と矛盾する。即ち、鈴木セツ証言、大河原芙美子25.7.15鈴木調書、飯沼敏10.12大沼調書、10.17山田調書(以上いずれも真実性が豊かである)と喰い違うのである。

以上を総合すれば、高橋の一三日アリバイ成立の蓋然性は極めて高いものといえる。

3 佐藤一の一三日アリバイについては、原二審判決で説明されているので、当審においてさらに新証拠がつけ加わつたことを述べるにとどめる。

その八、アリバイ工作、松川労組事務所に泊つた理由について

1 園子は、東芝側自白組の被告ら中、顛覆謝礼金の自白をしていない唯一人の自白者である。けれども、それは、園子が自白に近い供述をした10.29笠原調書の頃は、既に、他の被告ら自白の顛覆謝礼金の事実が怪しくなり、園子が完全に自白した11.6吉良調書の時には、既に他の被告らの顛覆謝福金の自白が裏付捜査で虚偽であることが明らかになつていたために過ぎないのである。

園子がアリバイ工作の自白をしたのは、右11.6吉良調書である。けれども、右自白調書は午後から吉良検事が取調べたもので、その日の午前には三笠検事の取調をうけ、その11.6三笠調書でもアリバイ工作の自白をしているのである。ところが、その供述内容は両者が全く異るのであつて、前者は、夜一〇時頃杉浦が組合事務所に来て武夫と園子の二人を目で合図して呼び出し、八坂神社に出る小道のところで、アリバイ工作のため今晩事務所に泊るよう話されたというのであり、後者は、朝九時過頃杉浦に二人が呼び出されて寮の前の柿の木のところで、同様の話があつたというのである。後者の11.6三笠調書は、新証拠の太田被告10.17玉川調書、10.28三笠調書の客観的事実に反する供述(その時刻には国鉄側の加藤はまだ来ていない)に基くものであることが明らかである。前者の11.6吉良調書は菊地10.22唐松調書(夜一〇時頃杉浦が来て二人を連れ出して行つたが、アリバイの話だと思つた)に照応するとされるのであるが、右菊地の唐松調書は、同時に架空の顛覆謝礼金の自白を含んでいることは注意を要する。そうして、右菊地の唐松調書に照応するといつても、それは杉浦が夜一〇時頃来て二人が外に出たという点だけであつて、その点は既に午前の三笠検事の取調べで時刻の点は別として、太田調書に合わされて述べているのであつて、それが夜に変つただけである。しかも、その自白をした一一月六日には園子の母親が、園子の調べられている警察に呼び出されていたこと、及びその翌日園子は吉良検事に対し、前日の自白を否認したことは、吉良証人の認めているところであり、園子の母親タニが園子に会わせられずに帰つたことは、新証拠の二階堂タニ宛電話箋によつて裏付けられている二階堂タニ証言で明らかである。

右の動かぬ事実関係からみると、同じアリバイ工作の自白でありながら、取調官が異ると、同じ日の午前と午後とで、その自白内容が一変しているのであつて、園子はその弁解するように、母親に会わせるなどと告げられ、既に迎合的な屈従的な心的状態にあつたことを窺うに十分である。その母親にも会わせられなかつたので、園子は翌七日前日の自白を否認したのであり、吉良検事もその否認の事実を認めているのに、11.7吉良調書には否認したことの供述記載は全然ない。右の経緯からみても、11.6吉良調書の供述は到底信用できない。

のみならず、11.6吉良調書の信憑力のないことは、その供述内容自体の不合理性からもいえるのである。即ち、園子の自白では当夜一〇時頃杉浦が組合事務所へ来て、目で合図して、武夫と園子を組合事務所へ呼び出して話したというのであるが、その時組合事務所には菊地のほかに大内、浜崎、小林も居つて雑談していたというのである。大内自白では、はじめ、杉浦が事務所に入つてきて、事務所内で二人にアリバイ工作の話をしたと述べ、後に、実はそれは想像を述べたものだと供述を変更しており、浜崎と小林はそのような場面を全然見てもいないし、聞いてもいないのである。苟も、園子の自白のように、杉浦が組合事務所内へ来て武夫と園子の二人を外へ連れ出し、暫くしてその二人だけ帰つて来たということが真実であるならば、その時明るい電燈のついた事務所内に居た四人のうち菊地のほかは誰一人として全然知らないなどということは、先ず通常の場合はあり得ないのが、経験則であろう。また、その時組合事務所内に居た者は皆、その自白によれば、杉浦が武夫と園子に話すアリバイ工作のことはその直前の謀議の席で杉浦から聞き知つているのであるから、何も二人を目で合図して外へ連れ出す要は毫もないどころか、そのような非常識なことをするのは不自然であり、むしろ経験則に反するとさえいえよう。

かような次第で、新証拠の出現により、アリバイ工作に関する、園子11.6吉良調書、11.9唐松調書は信用できない。これに照応する菊地10.22唐松調書もまた同様信用できない。アリバイ工作の証拠は右両自白以外にはないのである。

2 八月一六日夜、二階堂武夫、園子、浜崎、大内、菊地、小林の六名が松川労組事務所に泊つた事実は、証拠上明らかで争がない。

八坂寮の管理人である木村ユキヨ証言によると八月一六日の夜以前は園子に限らず、誰でも寮に泊まれたものであることが認められ、即ち、馘首の効力が一六日発効したので、馘首された者は寮へ泊めてはいけないと木村ユキヨは上司からいわれていたのである。このことは、新証拠の木村ユキヨ11.4木村調書(武夫は八月一二、一三、一四と三日間続けて同寮の真の間等に泊り、一三、一四の両日は大内が、一五日は浜崎、小林、大内の三名が真の間に、それぞれ泊つている旨)によつて裏付けられている。だから、従来組合事務所に泊つた者がなく、一六日夜がはじめてであることは当然のことである。

また、浜崎や小林のように松川町に自宅のある者でもこれまで八坂寮等に泊つた晩があることは、右新証拠の木村ユキヨ11.4木村調書、浜崎被告9.23武田調書により裏付けられている。武夫がこれまでビラ書きのため八坂寮で夜一二時過ぎまで仕事をしたことのある事実は、新証拠の円谷玖雄11.9木村調書、11.10笛吹調書、佐藤代治10.17吉良調書により裏付けられている。

そうして一六日夜組合大会終了の直後から(即ち一六日夜の謀議のはじまる前から)、武夫、園子、浜崎、大内が寮等に泊る考えであつた(園子は伊藤ハナの室に泊めて貰うことにした)ことは、その法廷供述によつて明らかで、その理由は、宣伝部長の武夫及びこれを助ける園子は大会で一日ストが決まつたので、それに備えるビラ書きのためであり、大内は大会後のグループ会議で帰る汽車がなくなつたためである(浜崎が泊ることの伝言を頼んだのは新証拠により前日のことである)。木村ユキヨ証言によれば、大会のあと会議をもつことは従来の通例であつたというのであるから、その夜のグループ会議を特別目的のある細胞会議とみる必要はない。

ところが、武夫は木村ユキヨから首切られた者は今晩から寮に泊められないといわれて、やむなく、組合事務所でビラ書きをする決心をしたので、数日来連夜の活動で疲労している御大の武夫が組合事務所で仕事をすると聞いては、園子も浜崎、大内、小林、菊地も放つておくにはいかず、同情して、組合事務所に泊つてビラ書きの手伝いをすることになつたものである。前記新証拠及び新証拠の小林被告10.5渡辺調書の出現により、右被告らの弁解どおりの事実を首肯するに十分であつて、スト前夜における組合の活動的若者達の心の動きとして、むしろ当然のことであろう。

その九 バール、スパナ関係について

1 一審検証調書(昭25.5)添付写真第二四号及び新証拠の出現により、事件当時松川線路班には、自在スパナは三丁あつたが、二丁修理に出され、一丁は事件直後福島管理部保線係長に引き揚げられ、こんど、金谷川巡査駐在所の棚から発見されたことが明らかになつた。従つて、自在スパナは松川線路班から紛失していない。

2 バールは一二丁あつて、事故作業のため当朝四丁持出したとされ、当審でこの点に関する多くの証人が調べられたが、その証言にさしたる信憑力は認め難い。最も重要な参考人である右当朝四丁持出した工夫について当時取調べが全然なされていないことが明らかになつたが、不可解のことである。そうして、当時現場では何人も納得しかねる員数調査が行われた結果、松川線路班で一丁不足ということになつた。ところが、事故発生の朝永井川信号所を調べた捜査復命では、同信号所にバール一一丁あることになつていたのが、復旧作業も終つた八月末現在では、特に増える理由もみられない永井川信号所に一丁増し、一二丁となつていることが明らかになつた。混雑した事故発生の朝、現場で松川線路班のものが一丁永井川信号所の方にまぎれ込むということもあり得なくはないので、そのために一丁増したとも考えられなくもない。いずれにしても、松川線路班から本バール一丁が紛失したかどうかは判然しない。

第三、結請

一、叙上考察しきたつた次第で、既に、新証拠またはそれと旧証拠を総合しても、上告審判決が原二審判決にかけた重大な事実誤認の疑を解消し得なかつた意味において、上告審判決の趣旨に従い、一審判決の破棄は免れないわけである。

さらに、当裁判所は、新証拠及び旧証拠の一切につき、分析と総合の上に立つて、綿密慎重に吟味を重ねた結果は、本件公訴事実の存在について一抹の疑すら残らないとまで断定することには、いささか躊躇を感ずるものがなくはないけれども、事件全体としての可能性に極めて少く、およそ確実な心証を得るなどということは、到底不可能であるという結論に到達したのである。

既に、然らば、弁護人らおよび被告人らの主張する爾余の論旨に対する断言を与えることは、おのずから不用に帰したことになるので、これらの点についての判断は、これを省略する。

二、そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条、四〇〇条但書に従い、第一審判決中被告人らに関する部分を破棄し、さらに当裁判所においてみずから判決することとする。

本件公訴事実の要旨は、被告人等は順次共謀の上、昭和二十四年八月十七日午前二時頃より同三時頃迄の間、東北本線松川駅金谷川駅間、東京基点二六一粁二五九米附近のカーブになつて居る地点に於て、バール、スパナ等を使用して、線路の東側軌条継目板をボールトナットを抜いて取外し、該軌条の犬釘、軌条支材等を抜き取り、因つて同日午前三時一〇分頃、同地点を通過せんとしたる人の現在する青森発奥羽線廻り上野行上り、旅客第四一二号列車の内、前部索引機関車一輛、炭水車一輛、荷物、郵便車三輛、客車二輛を脱線顛覆又は破壊せしめ、該列車の索引機関車に乗務中の機関士石田正三(当四十八年)、同機関助手伊藤利一(当二十七年)を各即死、同機関助手茂木政市(当二十三年)を受傷後其の場に於て死に致したるものであるというのである。

当裁判所は、前叙詳説したように、およそ本件断罪について、検討吟味を要すべきあらゆる角度からの審理を尽した結果、右各事実の存在を認めるに足る証明は、遂に得られなかつた次第である。

よつて、刑訴法四〇四条三三六条に従い、被告人らに対しいずれも無罪の言渡しをなすべきものとし、主文のとおり判決する。

検察官高橋正八、吉良敬三郎、菅原弘毅出席

昭和三六年八月八日

仙台高等裁判所第一刑事部

裁判長裁判官 門 田   実

裁判官 細 野 幸 雄

裁判官 杉 本 正 雄

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例